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 もしかしたら、その人は俺の青春だったのかもしれない。
 漠然と思ったことを頭のなかで言葉にしてみたら、安っぽくて嘘くさくて、なんだか冗談みたいだった。
 すぐに手が出る、足も出る。後輩相手にいつだって横暴な態度で、口の端を上げて笑う余裕綽々な表情。そんな人に、そういう風にさわやかで、儚げな言葉をあてるのは全然似合わないと思った。
 俺はこの六年間、青春を過ごした気なんてさらさらない。頭ごと揺さぶられる想いが何もなかったわけじゃない、その逆だ。思い返すことのほとんどが、若かったから、なんて理由に収められるものではなかった。
 雨の刺さる窓を見る。
 その背中を追いかけたことはなかった。
 そのくせ、こっちを振り向いて笑うその人の顔は、いやに鮮明に浮かんだ。
 当たり前といえば当たり前だった。俺たちはたぶん仲が良かった。コートの端で、フェンスの横で、部室のなかで、廊下と、海沿いの帰り道と、いつの間にか勝手を知ったお互いの部屋で、合わせたらずいぶん多くの時間を共にした。
 改めて見つめ合ったりなんかはしなかったけど、瞬間、いちばん近くで顔を見た。
 茶色い目。
 柔らかそうに見えた赤い髪に、取って付けたような言葉は、少なくとも今は似合わない。
 窓に刺さった雨が流れる。
 
 ◇
 
 丸井さんの住み始めた部屋は、学校から徒歩で二十分くらいのところにある。春から先輩たちが通う、うちの大学からは十五分くらいの場所だ。
 去年の秋、丸井さんが部屋探しをしていた時期にどういうところがいいのかを聞けば、「家賃が安くて、ガスコンロがふた口あるとこ」と答えていたのをなぜだかそのまま覚えている。そのときの映像付きで。丸井先輩はちょっとだけ眉間に皺を寄せて、むずかしい顔をしていた。それと、部活の休憩時間や帰り道なんかで、先輩たちに大学の話題がのぼっていたときは、丸井さんは自分は実家から通う、と決定事項めいた言いかたで言っていた気がするのに、やっぱりひとり暮らしなんだな、とか、そりゃあできるならしたいよな、とか、そういう風に思ったのも同じように覚えている。じゃあこれからいつでも気軽に遊びにいけるじゃん、なんて喜んだことも。
 気軽に遊びに、その家を訪れるのは今日が初めてだった。
 そのアパートは学校の最寄駅までを歩く通学路のすぐそばだけれど、いつも通る道からは少し入り組んだ通りのなかにあった。オートロックじゃあないらしく、ガレージになっている一階の横にある階段を二階まで上ったら、そのまま部屋の扉の並んだ廊下に出た。携帯を開いて、昨日のメールのやりとりをわざわざ見直した。受信メールに「202」、たしかにその部屋番号が書いてあることを確認してからインターホンを押した。十秒間くらい、わりと長いあいだなんにも反応がなくて、そのあとにがちゃりと部屋のドアが開いた。
「よう」
 知らないドアだとか、知らない玄関のなかで、見慣れた赤い髪の人がやっと俺を出迎えて、それと同時になんだか良い匂いがした。部屋のなかからシチューみたいな匂い。それが気になりながらも、「出んの遅いっスよ」と文句を言ったら、先輩は「はぁ?」と同じく文句めいた反応を返してきた。
「部屋、間違えたかと思ったじゃん」
「はは、ビビってんの」
 丸井さんはやっぱり謝罪とは真逆の態度で、玄関先から部屋のなかへと戻っていった。仕方なく文句の投げ合いは終了にして、とりあえず靴紐をほどきながら、「いい匂いする」と部屋の第一印象を告げると、その返事みたいに「昼飯食った?」と投げかけられた。
 それを聞いて、目線を足元から丸井さんの立つキッチンへと上げる。コンロに載せられた大きな鍋とフライパンの横で、丸井さんが何やら盛り付けている皿からはほかほかの湯気が立ち上っていたから、俺は思わず「まだっス!」と元気よく返事をした。
「食う? ハヤシライスだけど」
「食う、食います」
「おっけ」
 そう言いながら、片手で卵を割ってフライパンに落とす丸井さんに、俺は玄関先に突っ立ったまま見入ってしまった。この人がやたらと料理上手なのはずっと前から知っていたけど、いざこうやって、ひとり暮らしの部屋で当たり前みたいに自炊している姿を見ると、そういう暮らしは自分には縁がなさすぎるからか、小さな感動すら覚えるようだった。
「どした?」
 先輩は菜箸でフライパンをつつきながらこっちを見やって、「座ってていいぜ」、と目線で部屋のほうを示した。べつに遠慮していたわけじゃなかったけど、それでやっと、俺は部屋全体を見渡した。丸井さんが実家で使っていたものを持ってきたらしい、あの深みのある赤色のベッド。まだ半分くらいしかものの入っていない新品らしきカラーボックス。開封だけされて、荷物の詰まりっぱなしの段ボールがふたつ。黒のショルダーバッグとかグレーのパーカーとか、他にも知ってる持ち物はいろいろと散らばっていたけど、絵本とかゲームとか、そういうものは実家に置いてきたのか、これまで訪れていた丸井先輩の部屋とは少しだけ雰囲気がちがって見えた。
 背負ってきたラケットバッグを適当な場所に置いて、見慣れたローテーブルのそばの、新調したらしい大きなふかふかのクッションに勝手に座り込んでみる。丸井さんはハヤシライスの盛り付けられた二枚の皿をテーブルに置きながら、やっぱり「あ。そのクッション俺のな」とお咎めをよこした。(そう言いつつも、丸井さんはもうひとつの、これよりもふた回りくらい小さなクッションの上に座って、意外にも今回は見逃してくれた。)
「すっげー、うまそー」
 そうやって丸井さんが用意してくれたプレートは、そのまま店で出せそうな出来栄えだった。ハヤシライスにはふわふわの炒り卵が載せられていて、何やら見栄えの良いサラダまで添えられてる。
「そりゃどーも。いただきまーす」
「いただきます!」
 俺の褒め言葉を当然だと言わんばかりにあっさりと受け取って、先輩はさっさと手を合わせたから、俺もすぐ後に続いた。熱々のそれは味もものすごく美味くて、今まで食べたハヤシライスでいちばんだと本音を伝えると、先輩はちょっとだけにやけていた。にやける、なんて言いかたをすれば本人は文句を言いそうだけど、にこにこうれしそうには笑わない、素直じゃないような笑いかたなのだからしょうがない。俺はこの短い時間が好きだった。大抵、作ってくれた飯を一緒に食べてるときなんかに丸井さんがするこの表情。それを見てるのが楽しいってことを悟られないように、なんでもないようなそぶりで過ごす時間が。
 
 俺は練習試合終わりで腹が減っていたこともあって、先輩お手製のハヤシライスをおかわりまで含めて早々に平らげてしまった。空になったふたり分の食器を重ねて、丸井さんがキッチンの流し台へと立ち上がったから、慌てて「俺、洗うっス」と名乗り出ると、少し驚いた顔でお礼を言われた。
 その反応は心外ではあったけど、家で家事の手伝いなんかほとんどしていない俺にとって、今のが多少背伸びした言動だったのはたしかにその通りだった。でも、しょうがなかった。丸井さんの実家に遊びに行ったときなんかに、丸井家の弟たちと並んでご馳走してもらったことは今までにもあったけれど、こういう大学生らしいワンルームの部屋で同じように振る舞われると、なんとなく、急に丸井さんが大人びて見えたのだ。だから俺もお礼の洗い物くらい、この人と同じように当たり前みたいな顔でこなしたくて、できるだけ、そういう風にふるまった。
 そのあと、あんまり近所だとは言えないレンタルビデオ屋まで、ふたりで散歩ついでに赴いた。(返しにいくのが面倒なのではないかと一応気を遣ってみたら、「チャリで行けば余裕」だから構わないと先輩は言った。)そこで少し前に話題になった、ヒーローもののアクション映画のDVDを借りて、コンビニに寄って帰った。俺たちは半分以上駄弁りながらそれを鑑賞した。画面のなかの登場人物の発言やシチュエーションを茶化したり、もっと話は飛んで、もはや映画には関係ない高校のテニス部の話題なんかで盛り上がった。他にも丸井さんの元担任が晩婚した話だとか、それと、俺たちが中学の頃からいっしょに読んでる漫画が、ついに最終章に入ったことについての話だとかも。
 テレビから聞こえる主人公のヒーローの吹替の声と重ねて、丸井さんの近況も聞いた。まだ大学の授業も始まっていないのに、丸井さんはもうバイトを始めていて、すでに入れるときはできるだけシフトに入っているらしい。バイト先は最寄駅のすぐそばにある個人経営のケーキ屋で、俺も通学路の景色として見慣れている店だった。そこは丸井さんと同じく、海原祭の料理大会によく参加していた生徒の実家で、その人に紹介してもらったそうだ。授業が始まってからも、なるべくたくさんシフトに入るつもりなのだと丸井さんは言った。
 「ケーキ屋って、丸井さんらしいっスね」と思ったままを言ったら、丸井さんは、今までかろうじてテレビの画面に向けていた視線を、わざわざ俺のほうへと向けた。少しのあいだ、先輩が何も言わずに俺を見てるから、「え、なに?」と戸惑いを口に出せば、「いや、そうだよなぁ」と、丸井さんは何かに同意した。さっきの、丸井さんらしい、の話だろうけれど。
「なんで?」
 その態度そのものへの疑問をそうやって尋ねたら、丸井さんはローテーブルの上に置かれたポテチを食べながら、もういちどテレビに視線を戻して「んーん」と雑に会話を終わらせた。よくわからないけれど、べつに重大そうな何かはなさそうだったから、先輩がいいならと俺もそのまま流した。
 そうやって、わざわざ歩いて借りに行ったわりには、中途半端にしか向き合わなかった映画を見終えてから、俺たちはやっぱりキスをしたり、身体をさわり合った。今までにもたまに俺の部屋でしていたみたいに。
 丸井さんの手のひらは、表面がごつごつしていて硬い。たぶん長いあいだ毎日ラケットのグリップを握っていたから、つまり、俺の手のひらも同じなんだろうけど。その手が俺の肌にくっついて、それで、まめの跡が触れたのもわかる。わかって、それだけ。丸井さんの手のひらだって思うだけだ。
 丸井さんが大学に入って、もうテニスをしないのは知っていた。大学でもテニスを続ける先輩のほうが少なかったし、そういうものだと俺だってわかっているから、あんまり、何かを強く思うわけじゃなかった。さっき丸井さんがこれからの暮らしのことを話していたとき、授業とバイトのことしか話さなくても、それがふつうなのだとわかっていた。そういうことを気にするのは、先輩たちが引退するときだとか、卒業式だとかにちょっとはしたから、それでもういい。
 自分の姿が映り込んでいることがわかるくらい、すぐそばで俺を見ている茶色い目の色も、こういうときだけ俺の頬なんかを撫でる指の温度も、声を出すか出さないか、その隙間くらいの笑いかたも、当たり前だけど何も変わらない。新しいこの部屋のなかでも。
 
「赤也。布団あるから、お前、そっちで寝ろい」
 風呂場から出てきた丸井さんはタオルで頭を拭いながら、こっちを見るなりそう言った。先にシャワーを済まさせてもらった俺は、丸井さんのシングルベッドにひとりで腰掛けて、テレビに映るバラエティ番組を見ていたところだった。たしかに、このベッドにふたりで寝るなんてのは狭すぎるけれど。
「なんか、夢なくないスか? 初めて泊まりに来たのに」
「ばーか。まともなスペースで寝れんだから、ありがたく思えよな」
 明日も部活だろい。そう言いながら、丸井さんは布団の入っているらしい白色の収納袋をクローゼットから取り出した。
「ほら」
 自分で敷いとけよ、ってことなんだろう。布団を受け取りながらお礼を言ったら、「ん」と短い相槌が戻ってきて、丸井さんはドライヤーで髪を乾かし始めたから、もう声をかけられなくなった。
 とりあえず立ち上がって、クッションやローテーブルを端に避けながらそれを敷いていく。
 大学生のひとり暮らしって、誰でもこんな風に客用の布団なんかを常備するものなんだろうか。それとも、丸井さんは俺が泊まりに来るの、わかってるからかな。
 ベッドにふたりで並んで眠ったりとか、そういう、それらしいこともしてみたかったけど、たしかに丸井さんの言う通り、シングルベッドでぎゅうぎゅう詰めよりも「まともなスペース」で眠れるのはありがたい。
 丸井さんのほうを見やれば、濡れた髪に風をあてながら、さっきまで俺の見ていたバラエティ番組の続きを、俺の代わりみたいに眺めていた。ドライヤーの音でテレビの音声なんかは聞こえないだろうから、ほとんど見るともなく目を向けているだけなんだろう、まったくの無表情だ。
 先輩の赤い髪は、つよく濡れると色が濃く見えて、深い赤茶色のような色合いになる。
 その色が、熱い風をあてられて、もとの色合いにゆっくり戻っていくのをぼうっと見ていたら、丸井さんがこっちを向いた。それで、笑った。少しだけ眉を下げて、急に気が抜けたみたいに。
 そして、乾ききらない髪のまま、不意にドライヤーを置いたその人は、敷いたばかりの布団の上であぐらをかいている俺のそばに近づいて、俺を見た。
 いきなりだけどどうやら、そういう雰囲気、ってことだから、俺もすぐに乗り気になって丸井さんの背中に手を回した。そうしたら、「お前、俺のこと好きだよなぁ」、と先輩が言った。しょーがねーなぁ、みたいな言いかたで。
 俺たちが自分たちのことに、好き、という言葉を使うのはたまにのことだった。
 どうして今はなにも言っていないのに、俺じゃないこの人が俺の気持ちのことをわかっているのか、たぶん当たり前のことが、ときどき不思議にも思えた。
「アンタだって同じなくせに」
 そう言ったら先輩は口の端をあげて、余裕ある雰囲気で笑った。この人のいつもの表情だった。当たり前じゃん、とか、そりゃそうだろ、なんて言われてるみたいだった。たぶん俺のためにわざわざ用意してくれた布団の上で、丸井さんは「まあな」と俺の肩に顎を載せた。そのまま、まだ半乾きの俺の髪を掴むみたいにくしゃりと撫でた。
 こうやって、たまに、丸井さんの体温が直接あたるくらいにすぐそばにあることは、ここ二年と半年で、俺の当たり前になっていた。
 俺にとってのこの人は、やっぱりいつまでも変わらずに部活の先輩でもあったけれど、ふたりだけでいるとき、こうやってふれていると、頭の奥のほうでかすかに耳鳴りがするような、ぼうっとした心地になる。俺にはその感覚がなんとなく大切なもののように思えた。
 つけっぱなしのテレビから聞こえるタレントたちの笑い声が、だんだん遠くなるみたいだった。少し息をとめて、もう一回キスをした。
 
 結局、寝る時間はいつもより遅くなって、俺の寝坊を疑った丸井さんは、翌朝、俺を起こしてくれた。
 それで朝飯まで作ってくれて、俺はコイビトがそういうことをしてくれるっていうシチュエーションに無意識にあこがれがあったのか、目玉焼きとベーコンとトーストとサラダのセットにやたらと感激してしまった。そうしたら丸井さんはまた、あの素直じゃない笑いかたの、少しだけにやけた顔をしていた。
 部活で先に部屋を出ていく俺への見送りは、丸井さんは部屋の真ん中のクッションに座ってテレビを見たまま、玄関先の俺に軽く手を振るだけの、その人らしい雑なものだったけれど、それでも丸井さんの部屋から直接部活に行くなんてのは新鮮でなんだか楽しかった。
 丸井さんは今日もこれからバイトだと言っていた。
 そんなに毎日シフトに入るなんてほとんど部活並みのスケジュールだとか、そんな風には思ったけれど、そのとき俺は、丸井さんがかつてのテニスと同じように、何かに時間を割いて打ち込んでいるということがどういうことなのか、考えることもしていなかった。
 
 ◇
 
 四月になって新学期が始まってからも、月にいちどくらいは丸井さんの部屋を訪れた。これまでもふたりでわざわざ出かけるのは大体同じような頻度だったけれど、今は部活で顔を合わせていない分、たまのその日がちょっと特別に思えた。
 丸井さんはときどき、バイト先から売れ残りのケーキをもらってきて、いくつかあるそれを俺にも分けてくれた。全部独り占めしなくていいのかと半分からかうつもりで、半分本気で訊いてみれば、夏も始まりかけだというのに「あー、それ、バレンタインだから」と俺の選んだチョコレートケーキに季節はずれな理由をこじつけて、「ホワイトデーよこせよ」と無理やりに見返りを求められた。そのくせ、また次に部屋に行ったとき、いつも飯まで食わせてもらっているのだからと親に持たされたデパ地下のお菓子を「ホワイトデーっスよ」と渡してみたら、袋から取り出したクッキーを見つめて輝いていた丸井さんの表情は、わけがわからないとばかりに曇るのだから勝手な話だった。俺たちは二月にも三月にも甘いもののやりとりなんてしなかった代わりに、まかないと手土産だけはそうやってなんども交換した。
 これは七月のことだ、その日いつものように丸井さんが白い紙箱から出してくれたケーキは、溶けたろうそくみたいにつやつやとした表面で、きれいな赤色の見た目だったけれど、口に入れるとレモンのようなさっぱりとした味が広がった。食感もなんだかめずらしくて美味しかったから、感想を共有するつもりでなんの気なしにそれを目の前の人に伝えた。そうしたら丸井先輩があの、ちょっとだけにやけるような笑いかたをしたから、俺はもしかしてと思って、でも口をひらけずに、一瞬のあいだ固まってしまった。もしも本当に「そう」だとして、そんな風に丸井さんの作ったケーキを言い当ててしまうなんてことは、なんだかひどく照れくさいことのような気がした。そういうことをほんの短い時間で考えていたら、俺がそんな思考を巡らせていたことも知らずに、丸井さんはしたり顔で「それ、俺が作ったんだよね」と告げた。
 この人にそんな顔をされたから、俺はつい反射的に張り合いたいような気持ちになって、「だと思ったんスよ」、「わかってたっスよ、俺」なんて、ついさっきまで閉じていた口を簡単にひらいたら、先輩は「ほんとかよ」と呆れたように笑った。本当に本当なのだと主張しても丸井さんはやっぱり信じてくれなくて、「はいはい、分かってくれてうれしいぜ」と棒読みで言われる始末だった。根拠となる丸井さんのあの表情の話をしようかとも思ったけれど、それはケーキの味でパティシエを言い当てられることよりももっと照れくさくて恥ずかしいことのような気がして、俺はしかたなく引き下がった。丸井さんは何も知らずに笑っていた。
 同じ七月中だった。関東大会がもう始まっているなか、平日の昼休みに監督から呼び出されて、前々から話題に出されていた進路についての話を訊かれた。この夏の大会が終わってから決めても構わないと最初に言われていたから、そのつもりであることを伝えると、少し意外そうな反応をされた。すでに決めているのは卒業後もテニスを続けること、いちばん上を目指すこと。俺にとっては今はまだそれだけが、なんの迷いもなく選べる未来だった。
 
 とうとう夏休みが始まって、本格的に大会に専念する時期になると、やっぱり丸井さんの部屋にはなかなか行けなくなって、けれど代わりにいちど、ふたりで横浜まで出かけた。中華街まで出向く道でも、地元とおんなじに蝉の声がうるさかった。俺も丸井さんも食べるのが速くて猫舌でもないから、食べ歩きで買った肉まんや小籠包はすぐに胃袋に消えてしまって、途端に手持ち無沙汰になるのも毎回のことだった。毎日の部活やクラブの隙間にあてたその日、丸井先輩に会うのは久しぶりで、俺はなんとなく、いつもみたいには部活やテニスの話をあんまりしなかった。いくらでもある他の話題を無意識に選んでいたように思うし、丸井さんにも何か訊かれるわけじゃなかった。夜にはクラブで打ちたかったから横浜に長居はできなくて、中華街を回った時間がほとんどだったけれど、久しぶりの息抜きは楽しかった。
 夕方の終わり、地元に戻る駅に向かいながら、俺はやっとテニスの話をした。俺ばかりが喋っていたけれど、丸井さんはずっと相槌をくれた。いつもみたいに。今までみたいに。
 そうやってたどり着いた駅のなか、横並びで座った電車の席で、丸井さんは試合を観に来ると言ってくれた。それと一緒にもらった、「頑張れよ」、という言葉をこの人から聞くことに少し違和感を持ったのは、いつかに似た思いだった。その、いつかのことを覚えていた。たしかあれは中二の秋だった。あのときは違和感の正体が何なのか考えることもしなかったけど、今はなんとなくわかる。中一のはじめ、俺が立海大のテニス部に足を踏み入れる前から、すでにコートを囲うフェンスのなかにいたはずの人が、その外側から俺を見ているような感覚をうまく持ちきれなかったのだ。あのときも、なぜか今でさえも。
 でも、正体がわかったってその違和感に納得がいくわけじゃなかったし、そんなものを持つことだって、どちらかといえば嫌だった。それに、言うまでもなく俺の最初の先輩たちは、あの三人をはじめとして俺のなかに糧として強く存在したし、丸井さんもそのひとりだった。その人がそうやって、応援の気持ちを言葉にしてくれること自体は、俺にとって当たり前にうれしいことでもあった。だから些細な違和感のことなんて知らないふりをした。中二のときだって、たしかそんな風にやったんだ。
 なんとなく、向かいの窓にまっすぐ目線を向けているその人の横顔を盗み見ようとしたら、この近い距離じゃそれは叶わなくて、すぐに目が合ってしまった。
 いつもは案外、考えの掴みづらい、つんとした表情の多い人なのだ。
 他にもそりゃあ、げらげら大笑いしたり、余裕げに微笑んでいたり、見慣れたいろんな表情はたくさんあるけれど。でも、こんな風に、ゆっくり伝わるような視線をやさしく投げかけられるのには、ずっと慣れなかった。まつげを少しだけ伏せるみたいに細められた両目。たぶん、何度かもらったことのあるその視線は、もしかしたら俺がテニスの話をしているときのものばかりだったんじゃないかと、ふと思った。こんな風に最後になって。
 宣言通り、先輩が俺の最後の試合を見に来てくれていたことは、試合翌日にもらったメールで知った。俺の夏が終わった。高校でのテニスが。
 
 ◇
 
 このアパートを訪れるのはほとんど二ヶ月ぶりだったし、こうしてゆっくり泊まりに来るのは、いちばん最初に遊びに来たあの春休みの日以来のことだった。
 俺が来ることがわかっているからなのだろうけれど、丸井さんの部屋の鍵は開いていることが多くて、それは今日も同じだった。インターホンを鳴らしたあと、返事を待たずにドアノブに手をかけたらそのまま扉が開いた。
 家主はいつも通りに、部屋の真ん中に置かれた大きなクッションに座っていて、玄関に現れた俺を一瞥すると口の端を上げて笑った。
「おかえりーぃ」
 風船ガムをふくらませて、手元では携帯をいじりながら、適当に投げかけたであろうその言葉に、俺は少しだけ戸惑うような、それでもなにかうれしいような単純な気持ちになってしまった。それがどうにも悔しかった。
「お邪魔しまーす」
 我ながらあまのじゃくな返事をしながらも、きちんとした後輩らしく玄関で靴を脱いで並べる。丸井さんが靴箱にしまわずに出しっぱなしにしている何足かのスニーカーのなかに俺のそれが混じる、この光景を見るのはだいぶ久しぶりな気がした。
 部屋に足を踏み入れるとすぐに目に入るカラーボックスには、お菓子のストックが入った透明のプラスチックの箱やカラフルなプレートが置かれている。そこには数えきれない種類の味の棒付きキャンディや、丸井さんのしょっちゅう食べているガムが大量に詰め込まれ、そこだけ見ればほとんど店の一画のようだ。片隅にこんなコーナーの設けられた大学生の部屋は少なくとも神奈川ではここくらいだろうと、俺はなんど訪れても健在でありつづけるその景色を見るたびに笑えた。見かけたついでに、プレートの端からガムをひとつ手に取って、そのまま口に入れてみた。ここ数ヶ月、あの丸井先輩からケーキやら飯やらをいろいろ食わせてもらっているあいだに感覚が狂ったのか、それともただ怖いもの知らずになったのか。そんな俺めがけて、すぐさま「おい、なに勝手に食ってんだよ」なんて柄の悪い声が届いた。それはわかりきった反応だったのに、つい反射的に身をこわばらせると、怒ってみせたのは冗談だったのか、丸井さんは吹き出すように笑って「今日だけな」、「切原副部長はお疲れだし」と続けた。
 それから俺たちは、春にも行ったレンタルビデオ店までまた足を運んだ。八月末の昼過ぎはまだまだ真夏の真っ最中で、あの春の道のりとくらべてずっと足どりが重かった。照りつける強い日差しは、いくら毎日浴びつづけて慣れていたってきびしかった。道中、逃げ込んだコンビニでアイスを選んで、たまたま意見が合ったから揃いで買ったソーダ味のそれは、部活終わりの通学路でも、しょっちゅうこの先輩と並んで食べた安物だ。
 汗だくでたどり着いたレンタルビデオ屋では、やっぱり春に見たものと同じようなヒーロー映画を借りて、ついでに最寄りのスーパーで買い出しもして帰った。適当につまむためのスナック菓子と、今夜の夕飯の食材を見繕う丸井さんはてきぱきと手際が良くて、この人がここで春からひとりで暮らしている証拠みたいだった。
 
 丸井先輩は映画に出てくる子どもにやさしい。
 テレビのなかで子どもが泣いたり怒ったりうれしそうにしたりすると、慰めるみたいに「あーあ」とこぼしたり、つられてちょっと笑ったりもする。俺はそういうときなんにも言わないけど、また笑ってるなあって、確認するみたいに思う。
 俺たちはこの部屋で映画を何本か見た。丸井さんは普段からひとり、自転車であのレンタルビデオ店にちょくちょく通っているらしく、部屋に行くと新しく借りたDVDが転がっていることが結構あった。海外のアクション映画や、人気俳優のたくさん出る邦画だとか、たまにちょっとむずかしそうな洋画なんかもあって、ジャンルはまちまちだった。
 でも、今までに俺たちが二時間の映画を最後までまじめに鑑賞しきったことは、もしかしたらいちどだってなくて、大抵こうやって途中で、大きなクッションだとかベッドだとかに倒れ込んだ。
 映画がつまらないわけでも、会話がはずまないわけもなかった。ただのからだや気分の問題だった。そうしないとどうしようもないとか、そういう訳じゃあないんだけれど、俺もたぶん丸井先輩も、なんとなくそういう時間を選んだ。
 今日だって、そんな風に倒れ込んだベッドで、俺に組み敷かれる体勢になった丸井さんは、右手を俺のシャツのなかにすべり込ませて、背中に直接ふれた。
 俺たちは手を繋がないから、その手が俺の肌にふれるのはこういうときだけだった。
 丸井さんの手のひら。
 それは、もう前みたいにあんまりごつごつと硬くはなくて、ときどき肌に薄く引っかかるようだったまめの跡も、いつのまにか治ったみたいだった。
 それはふつうのことだった。
 それに、俺はちゃんと、この手のひらが持つ温度そのものだとか、俺を見上げる茶色い目の色、そういうものは何も変わっていないんだってわかっていた。たぶん、そういうことのほうが大事なんだってことも。
 俺はもう何もわからない子どもじゃない。
「……赤也?」
 テレビから、映画の登場人物の声や、作り物の喧騒の音が聞こえてくるなかで、丸井さんが俺の名前を呼んだ。ゆっくりとした、落ち着いた声で。
 それは、今の俺とはちがうものだ。
「赤也」
 嫌だった。なぜか、そんな風に俺を呼ぶ丸井さんのことがどうしても気に入らなくて、でも、その声のことが嫌いなはずもなくて、気持ちと心がちぐはぐで、異常だった。それはからだにも作用して、喉の奥がぎゅうっと締まるような感覚のあと、こめかみのあたりが強く痛んだ。
 返事はせずに、その人を見下ろす。
 俺を見上げる丸井さんは、大事な話をするときみたいな真剣な顔をしていた。
「お前、目……」
 丸井さんが何か言いかけていたけど、俺にはほとんど聞こえていなくて、その声にも何も返せずに、先輩の腰のあたりを撫でた。そうやっていつも通りにふれた。他のことはなんにも考えていないみたいに。
 丸井さんは言いかけた言葉を続けることはしなかった。
 目を細めてかすかに歪められた表情が、怒ってるみたいにも、悲しそうにも見えた。
 俺も、先輩も、それからひとつも言葉は交わさずに、指先だとか肌だけを重ねて、そのまま時間が経っていく。少しずつ。テレビの画面なんかもうずっと見ていないし、音声だって、言葉の意味はなんにも咀嚼できずに、ひとの声も物音も一緒くたに、BGMみたいに耳に届いてくるだけだった。
 ぬるい扇風機の風が、むきだしになった俺の背中にあたる。
 丸井さんの肌は、重ねた俺の手のひらより少しだけつめたくて、俺の頭のなかは発熱しているときみたいに曖昧に重たく、うまく重心を見つけられずにくらくらしていて、それでも、今のこんな感覚がなぜだか楽に感じた。
 でもこんなの今だけだ。
 長くは続かない。
 頭の後ろで、そんなことを漠然と思っている自分がいた。
 それでも、ずっと動きはとめないままで、数秒のあいだ、先輩の首筋にはりついた赤い髪の毛を見ていたら、また名前を呼ばれた。
「赤也」
 顔をあげたら、その人は俺を見ていた。少しだけ余裕なさげに下げられた眉で、それでもいつもみたいに、ちょっと笑った口元で。
 それはずっとぼやけていた景色のなかで、やっときれいにピントがあった映像みたいだった。焦点の先で丸井さんの視線はまっすぐに俺を向いていた。
 でも、その目が見ている先に、どんな俺がいるのかわからなかった。自分のことがわからなかった。
 どうしてこんな気持ちになるのか。
 べつになんにも不満はないのに、何がこんなに気に入らないのか。
 自分がいったい何が欲しいのか、何がいらないのか、そもそも俺の手元には何があって、何がないのか。そんな簡単そうなこともよくわからなくなって、ただ、今はこうやって、この体温のすぐそばにいる時間をとめたくなかった。誰が嫌がっても。
 こめかみの痛みが鈍く続いていた。
 耳鳴りがひどくなった、その先のような痛みだった。
 
 ◇
 
 丸井さんの肌から、やっとからだを離して、項垂れた。
 そのままなんとなく動けずにいたら、閉めきった窓の外で響いている蝉の声が、だんだんと耳に入ってくるようになった。
 頭のなかの熱と重みと、ぼんやりとした痛みがひくまでには途方もない時間がかかったような気がしていたけれど、徐々に気怠い重みを感じずに目線を動かせるようになって、ふと見上げたテレビの画面は、つけっぱなしのヒーロー映画を映したままだったから、そんなに時間は経っていないみたいだった。
 ついさっきまでテレビの音声なんかはほとんど聞こえてこなかったのに、こうしてみれば映画の登場人物たちの話し声は部屋のなかに案外くっきりと響いていて、このテレビの横で、たぶんひとりで必死になっていた自分がなんだか間抜けに感じた。
 ローテーブルの上にふたつ並んだ麦茶のグラスは、いつのまにか氷がとけて結露している。それを見るともなく見ていたら、映画の音声が突然切れて、顔を上げればテレビも真っ暗で、それでやっと横を見れば、丸井さんが電源を切ったのがわかった。
 丸井さんは、たぶんもうぬるくなってしまっている麦茶をひとくち飲んで、
「散歩しねぇ? そのへん」
 そうやって提案の形をとったけれど、無言の俺をよそに立ち上がって、おもむろに部屋を出る支度を始めたから、断る余地はないみたいだった。俺も黙っていたけど、べつにそれでよかった。
 部屋を出たら、むわりと暑い夏の空気が広がっていた。さっきまで窓越しにくもるようなフィルターのかかっていた蝉の声が、こんどは直接届いた。それはやっぱりちょっとうるさくて、俺はなぜかそんなもので、少しだけ落ち着いた気分になった。
 立海に入学してから五年間と数ヶ月、近所とは言えない家からここまで通い続けている俺にとって、部屋を出た途端にいつもの「学校まであと少し」の景色が広がるのは、この部屋になんど通ってもいまだに少し新鮮だった。
 学校に行かない日の、夕方の通学路。
 見慣れたファミレスとか、本屋とか、いつも通りの景色ばかりをたくさん目にしていたら、ベッドの上から残っていた、ぼうっと重たい感覚はゆっくりと消えていって、なんでもないふつうの日みたいな、そんな気分に近づいていった。だんだんと。
 このまま、こうしてこの道を歩いていれば、ベッドでのあの感覚はたぶんほとんど消えてなくなってしまって、もうずっと戻らないような気がした。朝起きて、顔を洗ったら、おぼろげに残っていたはずの夢の内容をすっかり忘れてしまうみたいに。
「海のほうとか行く?」
 先輩は、こんどはちゃんと提案でそう言った。
「……うん。わざわざ行くような海でもねーっスけど」
 そう言って、ちょっと笑ってみれば、俺はもう普段の自分に戻っているような気がした。
 景色とか、蒸し暑い空気とか、隣を歩く丸井さんとか、全部があんまりいつもと同じだったから、なんだか今はそこに紛れこむことしかできなかった。
 でも、それはたぶん先輩がそういう風にしてくれてるんだって、なんとなくわかっていた。さっきまでの感覚と一緒に、あのときの記憶そのものも薄れてしまっているのか、もうはっきりとは思い出せないけれど、部屋での俺は丸井先輩から見ても、いつも通りなんかじゃなかったと思う。名前を呼ばれても無視したり、変な態度だったと思う。先輩は、何も言わないけど。
 海沿いまでの道のりで、いつも部活帰りに寄り道していたコンビニがあったから、つい視線をやると、きっと同じ感覚の丸井先輩が「寄る?」と言った。俺たちはそこで今日ふたつめのアイスを買って、歩きながら食べた。夕方の日差しはそんなに強くなかったけど、それでもアイスは簡単に溶けていくから、急いで食べなければいけなかった。
 春に丸井先輩が高校を卒業するまで、皆でだったり、ジャッカル先輩と三人、たまにこの人とふたりだとかで、こうやってこの海沿いの道を歩くことは何度も何度もあった。五年分だ、数えきれるわけもない。
 日が暮れる前の、青色と緑色の混ざった海。ただの通学路の景色だから、わざわざ誰も海なんて気にして見ない。今日の俺たちも同じだった。
 ぬるい潮風にさらされて、長く伸ばした髪が視界にかかるのがうっとうしくて顔をしかめたら、丸井さんが隣で笑った。それに俺が文句を言う前に、「伸びたよなぁ」、なんて言って後頭部を乱雑に撫でてくるから、吐きかけた文句はなんとなく飲み込んでしまった。こんな風に丸井さんのペースに巻き込まれて、文句をつい飲み込んでしまうことも、数えきれないほど何度もあった。コートの端で、フェンスの横で、部室のなかで、海沿いの帰り道で。そういうとき、言いたいことが言えなかったはずなのに、いつもそれが嫌なわけじゃなかった。なぜだか最初から。中学一年生のときからだ。
「丸井さん」
「ん?」
「アンタって、もうテニスしねぇの」
 さんざん見慣れた風景のなかで、見慣れた人に訊ねた。
 その答えはもう、いくつか前の季節からずっと知っているものだったのに、俺はたぶん、ずっとこの話がしたかった。
 先輩は少しのあいだ何も言わなかった。口元は笑っていなくて、でも、むずかしい顔なんかはしていなくて、この通学路に馴染むままだった。
「しねぇな。赤也がするみたいには」
 知っている答えを言った丸井さんの髪は、俺とくらべて短くて、それでも少しだけ潮風に吹かれて、捲れるように赤い髪が揺れている。
「でも、俺、テニスはずっと好きだぜ」
 すっきりとした笑顔で、そんなことを堂々と言うその人を、なんだか子どもみたいだと思った。
 「お前もいるしな」、そう付け足して、丸井さんは食べ終わったアイスに挿さっていた薄い木の棒を口の端でかじる。そんな仕草もどこか子どもっぽく見えて、それを口に出したら頭をはたかれた。つい癖でその場所を手のひらで抑えたら、やっぱりまた笑われた。
「……俺がいるからって、なんで?」
 丸井さんはうすく笑ったままだった。
「なんでって、赤也はずっと続けるんだろ。テニス」
 そんな、きっとあんまり理由にならない理由を、その人はやっぱり堂々と、当たり前のことみたいに言っていた。
 ちいさな波の音と、薄汚れた堤防。
 かすかに残っていた耳鳴りはいつのまにか消えていた。
  
 
 べつに、俺、アンタにテニス続けてほしかったわけじゃないんスよ。
 そうやって本音を言ったら、先輩は頷いた。
 俺たちは通学路から、海岸と隣接された公園まで入りこんで、そこから海へと抜け出た。こうやってわざわざ海岸まで降りるのは、この人とふたりでははじめてのことだった。
 スニーカー越しに砂浜の感触がした。靴のなかに砂が入ってくるのが気持ちわるいから、俺たちは裸足になって、靴を手に持って歩いた。
 もう夕方だけれど日は沈んでいないから、海水浴をしている人たちがまだちらほらといて、ちいさな子どもなんかもいた。遠くではしゃぐ声が聞こえてくる。海岸の砂は日光をうけて、少しだけあたたかい。
「テニス、辞めないでほしかったんじゃなくて、アンタと俺はちがうんだなって、思っただけ」
 うん、と先輩はやっぱり頷いた。
 そういう横顔を見ていたら、不意に目があった。そうしたら、普段この人とあれだけたくさん話をしているのに、突然、海のなかに放り出されたみたいに口をひらけなくなって、何も言えなかった。
 海の上から吹きつけるぬるい風が、それでも今は心地いい。
 丸井先輩は、「俺も最近、やっぱお前のこと好きだって思うよ」、なんて、突然めずらしいことを言った。その言葉があんまりにも脈絡のないものだったから、「いきなり何スか」、とつい笑いながら言ったら、先輩もつられたように笑っていた。
 俺の通学路のそばの海に似合う、なんども聞いた笑い声だった。