なんだって知ってた
 
 
「何飲む?」
 湯の沸いたケトルを横目で確認して、椅子から立ち上がりながら丸井さんが言った。
「なんでもいい」
 ひとり、テーブルの椅子に腰掛けたままの、俺の答えを背中で聞いて、了承したのかしていないのか、キッチンから曖昧な返事をくれた。
 やっぱり俺の家のそれの三倍以上はある、豊富な種類の調味料やら何やらが並んだ棚の中から、その人が取り出したものはココアパウダーの缶だった。迷いのない手つきに少し笑えてしまう。
「ココアっスか?」
 笑いの滲んだ声色が気に入らなかったのか、丸井さんの声は反比例して、不機嫌なものに変わる。
「文句あんのかよ。なんでもいいっつったろ」
「いや、いいっスよ、なんでも」
 あっそう、と、素っ気ない返事をよこしながら、マグの中でスプーンを回す手つきは丁寧だった。
 そういう人だった。
「つか俺ね、まだ晩飯食ってないんス」
「はあ? 飯まで作れって?」
「ダメっスか」
「だりいし」
「そこをなんとか」
 寄せた眉根と、下がった口角の、隠しもしない迷惑そうな表情がこっちを向いた。手元の作業がゆっくり止まる。
「しゃーねえなぁ。つーかそれなら早く言えよ」
 作りかけのココアの入ったマグをテーブルに置いて、彼はこんどは冷蔵庫のなかに向き直った。
「何食いてえ?」
「なんでもいい」
 マグの中、スプーンの刺さったままの、液体と固体の真ん中みたいな、濃いココア色のものをぼんやりと見つめる。やたら多い棚の調味料も、よく知らないけれど拘りのありそうなココアの作りかたも、昔と変わっていない。
「お前、今日そればっか」
 こんどは丸井さんの声が、少しの笑いを含んだ。
 べつに、あの頃だって、何が飲みたいだとか何が食いたいだとか、わがままめいた希望ばかり口にしていた訳ではない。
 俺と丸井さんがこの部屋で何度も何度も重ねた、たくさんの短い時間。
「だって、何でも美味いし」
「褒めてもデザートは付かねえぞ」
 ココアだけで十分甘いからいらねえよ、とか、アンタと違って甘党じゃないんで、とか、そういう軽口は、適当に見繕ったらしい食材を調理し始めた背中を見ながら、なんとなく言う気にならなかった。
 有り合わせで作ったものなのに、炒飯やオムライス、変に小洒落たパスタなんかも、丸井さんの作るそういうものはいつも、本当に何でも美味かった。
 俺だって覚えていた位置から、何度も見た調理器具を取り出して、小気味良い料理の音を立てる背中を、知っていたままだった。