わたしの
 
 
 丸井はクラスの他の男子とちがって、私のことを名前で呼ぶ。智穂って。
 だけど、私たちはなにか特別な関係ってわけじゃない。丸井と私は同じ小学校出身だからって、それだけ。
 小学生のとき、私はみんなに名前で呼ばれていた。女子だけじゃなく男子にも。丸井はそのときのままに、私を名前で呼んでいるだけ。それでも、いつもうれしかった。
 丸井とは、小学校のとき最後の三年間が同じクラスで、卒業して進学する中学もいっしょで(うちの小学校から立海に進む子は少なかった)、私はついつい、ちょっとした運命みたいなものを感じていた。でもその運命は、中学に入ってクラス数がどっと増えたら、簡単に中止されてしまうような程度のものだった。
 だから、中三になった今年の四月、クラス分け発表の掲示板を見たときは思わず飛び上がりそうになった。一年のときも、二年のときも、隣のクラスにすらなれなかった丸井とまた同じクラスになれたのだ。
 ものすごくうれしかったけど、私はこっそりと頭のなかでだけ飛び跳ねたり、声なき歓声をあげて喜んだ。
 これまで友達同士で好きな人の話になっても、丸井のことが好きだとはいちども口にしなかった。それはあんまり格好良いとは言えない、私なりの意地みたいなものだった。
 
 小学生の頃から丸井は人気者だったし、彼のことを好きだという女の子もちらほらいたけど、中学に上がって、特にここ最近の丸井は大人気だった。バレンタインなんか、まるでアイドルみたいに、ものすごい数のチョコレートをもらっていて驚いた。
 かくいう私も、やっぱりその「ものすごい数」に加担してしまったひとりだった。私は用意周到に、そして臆病に、当時丸井と同じクラスだった友人に友チョコをあげるついでのふりをして、丸井にチョコレートを渡した。その子の席が丸井と近いことだって下見済みだった。用意してきた「丸井もチョコいる?」の台詞が、なるべく自然に聞こえるように努めた。他の子たちにあげたものと同じ袋で、同じ手作りのトリュフチョコしか渡せなかったけど、今はそれでもよかった。(それと、これは中学に入ってから知ったことだけど、丸井は料理までうまいのだ。お菓子作りでは海原祭で賞も取ったりしていて、そんな丸井に手作りを渡すのはハードルが高いようで迷っていたけれど、丸井がたくさんもらっているチョコレートたちは手作りらしきものがほとんどだったから、ちょっと安心した。)
 丸井は、自然に渡せた私のチョコを、やっぱりごくごく自然に受け取ってくれて、「サンキュ、さっすが智穂」なんて言って、喜んでくれた。と思う。そのやりとりを近くで聞いていた友人と後日バレンタインの話をしたとき、「そういえば丸井くんって、智穂のこと名前で呼ぶんだね」と言われて、少し誇らしかった。
 丸井は私を名前で呼ぶし、小学生のとき、何度もいっしょに帰ったことがある。ふたりのときだって何回かあった。それはぜんぶ、小学校が同じだったからとか、家が近いからだとか、そんな理由でしかないのはわかっているけれど、それでも、最近になって丸井に憧れはじめたような子たちと自分はちがう。そんなくだらない意地があった。
 そして春、丸井と同じクラスになって、席はあんまり近くにはなれなかったけれど、授業中のほんのちょっとの猫背とか、休み時間の椅子に反対向きに座って、周りの男子と話してるところとか、そういうのが見れるだけでうれしかった。ホームルーム前ぎりぎりにテニス部の朝練から帰ってくる姿は新鮮で、肩にかけた赤いフェイスタオルがやたらと眩しく見えた。二年ぶりに丸井のクラスメイトになって、小学生の頃と同じに、そうやって教室の彼をこっそり目で追った。
 丸井はこうして近くで見ても、やっぱり何も変わっていなかった。四年生のときも、五年生のときも、六年生のときも、丸井はクラスの中心でいつも楽しそうにしていたけど、他の男子みたいに、ばかみたいに騒がしいわけじゃなかった。クールってわけじゃないし、王子様みたいに紳士的というのもちがうんだけれど、他の男子みたいにくだらないいたずらで誰かをからかったり、無神経な発言で誰かを傷つけたり、絶対にしなかった。冗談は言うけど、ほんとうの悪口は言わないし、誰にもばれないくらいにさりげなく、誰にでもやさしかった。
 七月になって、日曜日に友達といっしょに男テニの大会を見に行った。関東大会。この試合に勝ったら準決勝に進めるらしい。うちの男テニがものすごく厳しい強豪だってことも、そこで丸井が頑張ってるのも知っていたけど、放課後にテニスコートをフェンス越しに盗み見る以外で、ちゃんと見るのは初めてだった。
 丸井は小学生の頃から足も速かったし、体育の時間もいろんなスポーツでよく活躍していた。だから去年の秋にテニス部のレギュラーになったってうわさで聞いたとき、うれしい気持ちにもなったけど、やっぱりね、って思った。
 だけど、想像なんかとは全然ちがった。テニスの試合をしている丸井は、今までのどんな彼の姿とも比べ物にならないくらい、ものすごく格好良かった。
 あんまり格好良くて、知らない人みたいに見えた。
 あい変わらずの風船ガムとか、コートを移動するとき、桑原の肩を軽く叩く仕草とか、頭の後ろで組んだ手のひらとか、そういうところはいつもの丸井と同じだったけど、それを見てなんだか安心するくらい、テニスをしている丸井はそこに立っているだけでも特別に見えた。普段と何がちがうのかと聞かれればうまく言えないけれど、きっと目線とか、表情とかが少しずついつもとはちがった。それらがぜんぶ重なって、とにかくその彼は特別だった。
 なにより、プレイには驚いた。相手の打ち込んできたボールはほとんど桑原が返していて、丸井はたまにボールを取ったかと思えば、きっとものすごく技術のいることが素人の私にもわかるような、派手で華麗な技をどんどん決めていった。きっとテニスも上手なんだろうとは思っていたけれど、こんなことができるだなんてちょっと圧倒されてしまったし、目の前で繰り広げられる、そんなショーめいた試合に感動すら覚えた。
 丸井と桑原のペアの試合はいちばん最初で、その後の試合も最後までぜんぶ見たけれど、他にあんなふうに点を取る子はいなくて、やっぱり丸井と他の子は全然ちがうみたいだった。それだけはコートの上でも、教室のなかでも変わらなかった。
「智穂」
 翌日の月曜日の、帰りのホームルーム後だった。放課後を迎えたばかりの教室のざわめきのなか、丸井の声が私を呼んで、びくっと動いた心臓を悟られないように、声の方向を向いた。
 近づいてきた丸井は、私の前の席の椅子の、背もたれのところに反対側から軽く腰掛けて、私を見下ろした。
「昨日ありがとな。応援、来てくれてたんだろい」
「あ、うん」
 A組の子に誘われたんだけど、私も見に行きたいなって思ってたし、ずっと。
 聞かれてもいないのにそんなことを付け足して、予防線を張りながら、伝えたいことも伝えた。
「……丸井、すごかったね」
 昨日の、特別だった、コートの上の彼を思い出しながら呟いた。
「なんか、ショー見てるみたいで。丸井だけ、他の新しいスポーツやってるみたいだった」
 格好良かったよ。そう付け足したくて、でもなかなかうまく口を開けずにいると、丸井は小さく声をあげて笑った。
 楽しそうにしてくれたのがうれしくて、落としかけていた目線を上げる。
「おもしれー感想思いつくよな。それ、すげぇ褒めてくれてんの?」
 にやついたような表情が少し新鮮で、私はどぎまぎしながら、でも今なら言えるような気がして、こっそりと勇気を振り絞った。
「あ、当たり前じゃん。だって、すごく格好良かった……」
「はは、サーンキュ」
 今の私の精一杯を、丸井はいつも通りにあっさりと受け取った。他の子たちのあげる差し入れみたいに、バレンタインのチョコレートみたいに、誕生日のプレゼントみたいに。わかっていたから、それはよかった。でも、
「天才的だろい? 俺のテニス」
 そう言った丸井が、コートの上にいたときと似ていた。
 どこがとはうまく言えないけれど、やっぱり目線とか、表情とかが、ほんの少しだけ。
 それで、ああ、本気なんだ、って思った。
 それは昨日の彼を見て、とうにわかっていたことのはずだったのに、そんな丸井が目の前にいて、こうやって話をして、やっと今ほんとうにわかった。
 徒競走で軽々と一位を獲る姿はよく似合うけど、汗をだらだら流してランニングしてる姿のことを、ちょっと意外に思ってた。去年も一昨年も、すごく厳しいからっていろんな人が辞めてばかりいた男テニを決して辞めないところを、ほんのちょっとだけ不思議みたいにも思ってた。
 昨日の、いちばん格好良かった丸井を、知らない人みたいだと思ってしまった。
「うん……」
 最近、丸井に憧れはじめたような子たちと自分はちがう。そんなふうに思ってた。
 丸井は私を名前で呼んでくれるから、ううん、私は小四のときから、ずっと変わらず丸井を見てるからって。
 でも、ちがった。そうじゃなかった。
 丸井は、「また応援、頼むぜ」なんて言って、私の額を軽く小突く。すとん、と音を立てて椅子から立ち上がると、教室の外へと出て行った。重たそうなラケットバッグを背負って。
 いつもならうれしくて、どきどきしてしまうようなその仕草も、今はなんだか悲しいみたいだった。
 だって私は丸井のことをずっと、なんにも変わってない、って思ってた。
「おれの、テニス……」
 丸井の言っていた言葉を、誰にも聞こえないように小さく、真似してみる。
 好きな人がいる、って言われたみたいだった。それも、ものすごく本気の。
 ああ。
 机に突っ伏して、自分の腕のなかで、吐ける息がなくなるまで、思いっきりため息をついた。なんだか、今はどうしても、そうするしかなかった。