アイ・ノウ・ユー
 
 
 俺たちの足元は海の水面に沈んでいて、水のなかにうっすらと揺らぐ影だけが見えた。両足の先を水中になくした姿で、赤也は笑っていた。幽霊みたいな足先で。
 そういえば、サンタの不在をやっと知ったばかりのこの後輩は、たしか幽霊のことも信じてたっけ、なんて、昔のことをふと思い出した。いつだったか合宿中に皆で怖い話をしたとき、聞いているその場ではわりと平気そうにしていたのに、あとから思い出して怖がっていた姿を知っている。そんなことを思って少し笑えた。
 赤也は俺の思い出し笑いに気づかずに、音をたてて海のなかを歩く。
 かつてのサンタや幽霊みたいに、俺は信じていなくて赤也は信じていることは、今もあるだろうか。
 なにかあるだろうか。
 
 ◇
 
 お前ならどこでもやっていける、なんてよく言われたのだ。
 たしか進路指導の面談で担任に、なにげない会話のなかでクラスメイトに、それにいつだったか相棒にだって。
 そのわりに六年前から俺の居場所はこの海のそばから動かないままだけど、春、高校を卒業して、ひとり暮らしの部屋に引っ越してから、俺の生活はがらりと変わった。
 俺の通う大学のキャンパスと、六年間通った中高の校舎は歩いてすぐの距離だから、大学生になって変わることといえば制服を着なくなることくらいだ、なんて同級生と冗談で言い合ったりもしたけれど、ほんとうはそんなわけがなかった。
 十八年間暮らした家を離れて、もう寝起きの悪い弟たちを起こすことも、家族の朝飯や弁当を作ることもない。大学では新しい友達もできたし、バイトだって始めた。そして何より、生活のなかでテニスコートを見かけることすらなくなった。
 立海大附属テニス部。
 俺の周りにいたチームメイトには、すでに将来の進路を決めてる奴が多かった。プロのテニスプレイヤーになる準備を始めていたり、就職を見据えて外部進学をしたり。
 俺はといえば、興味のある進路はあったけれど、他の選択肢を全部放り投げてそれに全てを懸けられるほど、自分の気持ちに確信や覚悟があるわけじゃなかった。大学生なんて、だいたいそんなものだと思う。俺もそのうちのひとりだった。
 
「じゃあ今日もお疲れ、丸井くん」
「うす、お疲れ様でーす」
 バイト先のケーキ屋にて、片付けとか掃除とか、そういう地味な締め作業を終えてバックヤードへ向かう。指定の帽子やエプロン、ボタンの大きなコックシャツから私服に着替えて、上がりの挨拶のためにもういちど厨房に顔を出したら、店長がまかない用の白い箱を差し出してくれた。現金にもぱっと明るくなった自分の表情には、あとから気がついた。
「ロールケーキだよ、今日のまかない。賞味期限ぎりぎりだけど、よかったらみんなで食べて」
「うわ、ありがとうございます。いつもすんません」
「こちらこそ。今月もたくさん入ってくれて本当に助かってるからね」
 いつも良くしてくれる店長は、中高のとき、海原祭の料理大会になんどか並んで出場した同級生のお父さんで、その子の紹介で俺はここでバイトを始めた。
 俺なりの興味のある進路というのはこれだった。料理はずっと好きだし、特にお菓子作りは俺にとって、少なからずの特別だった。ほんのちょっとの加減のちがいで仕上がりが大きく変化する気難しいところや、できあがった作品を披露して、ギャラリーの表情を見るのは特に好きだった。そういう気持ちは、俺がずっとボレーに注いでいた情熱にも似ていた。
 でも、その一方で、飯もお菓子も、そういうものは家族だとか、身近な人にたまに振る舞うだけで充分ではないか、という感覚も捨てきれなかった。
 そんな俺の中途半端な思いと裏腹に、ありがたくも環境には恵まれていた。この店を紹介してもらったことはもちろん、うちの学校は留学に強くて、大学生だけじゃなく附属の中高生にさえも海外でのパティシエ講座のチケットが用意されてるくらいだ。パティシエになる道は専門の学校だけじゃなく、そんな風に留学や、ケーキ屋で実務経験を積むこともひとつの手だと知って、高三のときに一応取り寄せた製菓学校のパンフレットは、結局捨てた。
 中高での料理大会のおかげで店長は俺の腕を買ってくれていて、キッチンの手伝いも少しずつやらせてもらえている。これからの俺が、もう少し先、もしもパティシエの進路を選ぶと決めたとき、そのときの俺に技術が伴っていないとどうにもならないから、今からたくさん時間を割いて、できるだけのことはやるつもりでいる。
 大学入学前にそのことを両親に話したら、家族は俺が自分の進路についてゆっくり考える環境を作ってくれた。家事が苦でなければと、ひとり暮らしをしてひとりの時間を作ることをすすめてくれたのだった。
 俺はその思いやりを受け取って、人生で初めてひとりきりでの生活を始めた。新しい部屋からは大学もバイト先も徒歩圏内で、いろいろと便利だ。これだけたくさんシフトに入っても、今までの部活漬けの暮らしよりもスケジュールはだいぶ楽だった。
 自分のためだけの家事をしながら考えるのは、ぼんやりとした将来のことと、目の前の具体的な課題のこと、少しだけ離れたところに住む家族のこと、それと、たまに赤也のことだった。
 ながく伸ばされた癖っ毛。
 あいつは自分の気持ちを中途半端だとか思ったこと、一回もなさそうだよなあ、なんて思って笑えたことがなんどかあった。この新しい部屋で。
 
 ◇
 
 赤也がはじめてこの部屋に来たのは、まだ大学の授業も始まっていない三月末の頃だった。部活帰りに来ると言っていたから、適当に飯を作って待っていたけど、少し久しぶりの他人のための料理は楽しかった。訪れた客人のうれしそうな顔を見るのも。飯のお礼だとか言って、俺の部屋で洗い物なんかしている背伸びした後輩の横顔は、ちょっとおままごとめいていたけれど。
 それから赤也は月にいちどくらい俺の部屋を訪れて、そのたびにこの場所でくつろぎ慣れていった。
 四月、二度目に来たときには、俺が大学の課題に取り掛かっている横で本棚の漫画を勝手に読み進めているから、借りて帰るかと聞けば「また来たときに読むからいいっス」、なんてページをめくる手を止めずに言っていた。
 三度目は五月の終わりで、部活終わりの赤也とは中高の校門前で落ち合った。毎日通う大学から徒歩数分の場所だけれど、用もないそこを訪れるのはほとんど卒業ぶりだった。
 それからそのへんを少しぶらついているうちに、不意に降られた通り雨。きっとすぐに止むから待っていよう、という俺の提案を無視して、覚えたての俺の部屋への道のりを勝手に走り出した背中があった。止まるように促してもその背中は全速力をやめなくて、それがなんだかばかばかしくて、追いかけながら笑ってしまった。
 赤也のテニスシューズと、俺のスニーカーが水溜まりを避けて走る。
 校門前で目を合わせたときから、その日の赤也はやたらと機嫌がよかった。たまの気まぐれでこういう日があるのだ。俺を見て、たぶん意味もなく、少なくとも脈絡はなく、唇が小さく笑う。いつもとちがうそんな態度に、怪訝に視線を返してみせると、おかしなことにそれがうれしいのか、俺を見ている両目は心地好さそうに細められた。
 いつもだったらきっと誰よりも文句を吐き出すような、雨に濡れた髪や、肌に張りつくびしょ濡れの制服のシャツ。そういうものの煩わしさも、どうやら今の機嫌の良さには敵わないらしい。
「……お前さぁ」
「はい?」
「家着いた瞬間、止んだじゃねえか、雨」
「いーじゃないっスかぁ」
 無責任に笑う赤也が雨に濡らした、少しだらけた調子の制服は、俺もつい春先まで着ていたそれだ。
「ねぇ、早く開けてよ」
 生意気な口調に、吐き慣れた文句の代わりに短く息をつく。濡れた手のひらをジーンズで軽く拭い、ポケットに手を突っ込んだ。部屋の鍵が指先に当たる。
 
 脱いだ靴をきちんと揃えるのは、中学のときから変わらない、少し意外な赤也の習慣だった。
 部屋の主より先にずかずかとなかへ入っていく本人の遠慮ない振る舞いとは裏腹に、テニスシューズは行儀良く玄関に鎮座する。
 ワンルームの照明を付けると、さっきから機嫌の良い口元はとうとう声を出して笑った。
「んだよ」
「丸井さん、やっぱおもしれー、その髪。すげーぺしゃんこ」
「あぁ? 誰のせいだよ、つかお前もだし」
 小憎たらしいにやついた目線でこっちを見ている後輩は、どうやら自分の目にうつるものしか文字通り見えていないらしい。自分の濡れた癖毛こそいつものボリュームをずいぶん失って、少なくとも俺のそれよりずっとリアクションのし甲斐があるはずだ。
「いいから、早くシャワー浴びて来い」
 風呂場に向かって半ば無理やりその背中を押し込めば、顔だけで振り返りながら「一緒に入る?」なんてまた笑った。冗談だろうが本気だろうが、そのやたら良い機嫌に気味悪ささえ覚えながら、とりあえず「狭い」と拒否した。赤也は笑ったままで「へーい」と素直に従った。
 数分もすれば風呂場の扉がまた開いた。風呂上がりの、さっきよりもしとどに濡らされた髪の毛はさらに大人しくて、いつも思うけれど、ちょっと別人みたいだ。風呂場の扉は開けっぱなしで、湿気た空気が部屋に流れ込む。ながい黒髪をタオルで大雑把に拭っている、その横を通って、赤也の来た道を辿るように風呂場へ上がりこんだ。
 
 俺が部屋に戻ると、赤也はさっき見たときと大して変わらない水の量を髪に載せたまま、他人のベッドにうつ伏せで寝転んでいた。
「おい」
 反応はない。
 ベッドに腰掛けて、その後頭部あたりから、服も着ていない上半身をぼんやり見下ろした。
 だらりと伸ばされた腕の先から床に無造作に落とされたタオルを拾いながら、起こすついでに、自分の使っていたタオルでその頭を拭いてやる。
「寝てんの」
 無言のまま、されるがままに、頑なに伏せたまま動かない後頭部や背中を見て、なんとなく、狸寝入りにちがいないと感じた。寝起きが悪いのも知っていたけれど、それでもそう思った。
「赤也」
 水気のとれてきた黒髪を拭う仕草を止め、さっきよりも声を出して、名前を呼ぶ。
 無反応の背中にもういちど口を開きかけたとき、うつ伏せのからだは動きを見せて、こんどは仰向けに載せられた枕の上から届く視線が、変わらず上機嫌だった。
「寝てないっス」
 やっぱり、そんなことは知っていた。
 俺がそれを知っていたことも、赤也はどうやら知っていた。
 赤也はたまにこうやって、緩ませた口で、少し低く喋る。
 俺にとってそれが、少し着崩された制服や、意外にきれいに揃えられたシューズや、生意気な口調と同じところから、当たり前みたいに取り出される記憶のひとつになったのは一体いつからなのか、はっきりと思い出せない。
 
 赤也の肌は俺の手のひらよりも少しあったかくて、だから、ふれるたびに、じゃあ赤也は今つめたいのかなって、ふと心配の手前のような気持ちで思う。もう数えきれないくらい俺たちはこういう時間を過ごしているのに、おかしなことに俺は、初めて赤也にこうやってさわった日から、行為のはじめにはほとんど毎回このことを思っているような気がする。それでなにか言ったり、やめたりなんかはしないけど。高校生のときのあのいちばん最初の日が、やたら寒い冬の日だったからかもしれない。
 でも、そんなことを思うのはいつも一瞬だけで、すぐにそんなことは忘れてしまう。そして、忘れたことも忘れていく。
 
「このベッド、やっぱ狭すぎっスよ」
 俺のすぐ真隣、ぎりぎりひとつの布団に辛うじて収まりながら、天井をぼうっと見上げた横顔で赤也が言った。そういえば、口元はもう緩んでいない。
 風呂上がりだった赤也の髪の毛は、いつのまにかほとんど乾いて、今はもう、いつも通り好き勝手に左右に跳ねている。
「お前がいなきゃ快適なんだけど」
「だから、それが。俺が来るのわかってんでしょ」
 その狭いベッドのなかで、こんどは視線がこっちを向いた。だから俺のそれと簡単にぶつかったけれど、生意気な物言いへの文句として、わざとらしく逸らす。
「勝手なこと言いやがって」
 逸らした視線と同じ種類の声を吐き出してみせた。そうしたら赤也が少し黙るから、見るともなく見ている天井に、何秒かの沈黙が浮かんだ。
「怒ってんスか?」
 沈黙を過ぎて、赤也が喋った。笑いのまじった声色で。それは俺が本気で怒っていないことを知っている証拠だった。
「まあな。下で寝れば? いつもみたいに」
「でもさぁ、丸井さん」
「あ?」
「アンタは俺のこと、嫌いになんないよ」
 今日の赤也は少し変わっている。
「へえ」
 そうだな、だとか、そういう風に答える気にもならなかったし、そんなことはない、とか、そう言いたい理由もなかった。
「そうなんだ」
「そうなんスよ」
 見えないけれど、赤也はたぶん、また笑ったと思う。
 寝たふりを決め込む背中みたいに、俺はいつからか、こいつのそういうそぶりがわかった。
 
 それからも俺たちは月にいちど、大抵、俺の部屋でだらだらと時間を過ごした。適当にテレビを見たり、DVDを借りてきて映画を見たり、ときにはそれぞれ別のことをして過ごしたり。高校生のとき、たまに赤也とやっていたゲームは、弟たちのために実家に置いてきたからできないけど、代わりにふたりぶんの夕飯を並んで食べた。バイト先から持ち帰ったまかないのケーキが冷蔵庫にあれば、食後に出すこともあった。俺がはじめてバイト先の定休日に厨房で作らせてもらった、カシスとシトロンのケーキをこっそり出してみたときも、赤也はぺろりと平らげて、「うまい」以外にも褒め言葉をつけてくれた。
 赤也は甘いものが特別好きだというわけではないけれど、ケーキはいい気分の日に食べるものって感じがするから結構好きだ、なんて言っていたことがあった。きっと誕生日とかクリスマスとか、そういう日のことを連想しているんだろう。それを聞いたのはだいぶ前のことだったけれど、俺はなんとなく、その言葉をずっと覚えていた。
 
 久しぶりに横浜まで出かけたのは八月のことだった。毎日毎日、アパートの窓を閉め切っていても、くぐもったような蝉の声がガラス越しに届いていた。俺も赤也も夏休み中で、ただ、テニス部は大会の真っ最中だから、休みどころじゃないのは俺もよく知っている。たぶん、はたから見れば、食って寝てあとはテニスしかしていないような日々だ。その合間にやっと絞り出したんだろう休みを指定して、誘いの連絡をくれた日があったから、久しぶりに駅で待ち合わせをした。横浜に出て中華街へ行く、今までにも俺たちがなんどか選んだ計画だった。
 赤也は電車に乗れば、いつもおもしろいくらい簡単に睡魔に襲われる。それでもその日は眠たそうな気配も一向になくて、だから、俺たちは目的地につくまで、いつもみたいになんでもない会話を繰り広げた。テレビの話、漫画の話、学校の話。久しぶりにこうやって出かけてみると、会話のテンポもいつもの部屋とはちょっとちがうような気がした。ゲームの話、ジャッカルの話、幸村くんの話。電車に乗った三十分弱、いつも赤也が欠かさないような、部活のくだらない愚痴は出てこなかった。俺はそれを気にしなかった。
 
「もー! マジ笑いすぎっスよ、アンタ」
「あっはは、いや、すげぇ奇跡だったから……ふはっ」
「うっせーなぁー!」
 ついつい込み上げる笑いを隠さずにいたら赤也が不機嫌に吠えるから、俺は頑張って半笑いにとどめながらとりあえず形だけ謝った。中華街にたどり着いて、いつも最初に寄る焼き小籠包の店で食べ歩きのための買い物をしたときのことだ。早速歩きながら赤也がかぶりついた小籠包から勢い良く肉汁が飛び出て、それが赤也のTシャツにプリントされたブランドのキャラクターにうまく命中したって、それだけのことだったのだけれど、それがやたらとツボにハマってしまったのだった。
「小籠包一個くれたら許しますよ」
「それは無理」
「だと思った!」
「じゃあ俺のティッシュやるから、拭いたげるし。ティッシュ持ってるか?」
「……持ってない」
「よし」
 契約成立とばかりに、赤也のTシャツに飛んだ汚れをティッシュでぽんぽんと拭いながら、「やっぱ丸井さんの笑いのツボって変っスよね」、と上から降りかかる赤也の拗ねた声を聞いた。
「それお前にしか言われねーけど」
「俺はずっと思ってるっス」
「あー、赤也のやることがツボってのはあるかも」
「全っ然うれしくねー」
 Tシャツに描かれたキャラクターはラバープリント素材だったから、汚れはあっけないくらいにきれいに取れた。
 夏休みの日曜日の中華街はやたらと混み合っていて、人混みに紛れ込むように不自由に進むしかなかったけれど、それも案外悪くなかった。食ってだべって、笑ったり、口悪く突き放してみたり、俺の部屋でのそれとおんなじような過ごし方を、やっぱり横浜の街でもしていた。そもそも俺たちは最初からずっとそうだった。
  
 中華街をしばらくうろついて、食べ歩きにも満足して、適当にぶらつく寄り道もした。赤也は夜にはクラブで打つと言っていたから、夕方の終わり、まだ昼間とほとんど変わらないような日差しのなか、俺たちは帰りの駅へと向かい始めた。最近、大学の友達とは夜遅い時間に遊ぶことも多かったから、もともとはこういう流れのほうが俺にとっては身近なはずなのに、なんだか新鮮なことをしているような気がした。
 俺たちはくだらない会話を続けながら歩いた。近所にできた店の話、いっしょに見た映画の続編が公開される話、また学校の話。途中、蝉の声がうるさいことには、家から出かけたときぶりに気がついた。だって、ずっと鳴りっぱなしのそれをいちいち気にしてなんかいられなかった。俺がそんな風に朝ぶりに蝉の声を気にかけたのは、いちど会話と会話のあいだに、いつもよりも長く隙間があいたから。だから、赤也のほうを何の気なしに見たら、横顔はなんでもないような顔をしていたと思う。
「……ねえ、丸井さん、俺」
 ふと切り出された声は淡々としていて、わざと整えられたような雰囲気があった。短い言葉でも、今日のやりとりのなかでは浮いていたからなんとなくわかった。俺がうん、と相槌を打ったら、なんでもない横顔が少しこわばって、その表情もきっと作ったものなのだと、その一瞬で思った。
 赤也が急に立ち止まった。だから、一歩先で俺も止まった。自然と向かい合う形になって、少しのあいだ、伏し目がちの表情は言葉を続けることはしなくて、俺にはいまだに蝉の声なんかが聞こえていた。下がっていた赤也の視線がこっちを向き直す。ぎこちなく、それでもはっきりとした視線だった。
「今日言おうと思ってて。いきなりだから先輩、びっくりするかもしれないけど」
「うん」
「俺、高校卒業したら、アメリカのアカデミー入るっス」
 前から監督に言われてたんだけど、こないだ決めた。
 赤也はやっぱり淡々とした口調で続けた。
 そして、俺がなにか答えるような時間をあけずに、日本にいてもプロは目指せるけど、せっかくの環境を逃したくないから決めた、とか、とりあえず一年は留学期間が決まってて、そのあとの拠点はわからないけど、そのまま海外にいることになるかもしれない、とか、いくつか説明を並べた。
 それはもしかしたら、俺が「びっくりする」ことを怖がっているのかもしれない。俺はなによりも最初に、そんなことを思ってしまった。
 それからほんの一秒か二秒、だんだん言葉の意味を飲み込んだ俺は、赤也の言う通りたしかに驚いて、でもきっと想像のものとはちがった。
「そっか。すげーじゃん、アメリカかぁ」
 目の前の表情はあんまり変わらなかったけど、それでも少し緊張がほぐれたような顔をした。家族連れが俺たちの横を通って、楽しそうな子どもの高い笑い声が届いた。それと同時に、赤也が口を開きかけたのが見えたけれど、先を越すように俺は話を続けた。
「すげーけど、お前英語で生活できんのかよ?」
 そんな風に半分茶化してみれば、赤也はこんどこそ、普段の会話でするような、不満そうに顔をしかめる表情をした。
「うわ、それ絶対言われると思ったっス」
「勉強すんの? 来年までに」
「当たり前っしょ。ペラペラんなってやりますよ」
 赤也はひねくれたような笑いかたで言った。わるく言えば悪ガキみたいだとも、よく言えば不敵だとも言えそうなその表情も、ずっと見慣れたものだった。
 だから、ほんとかよとか、無理だろとか、このときばかりはあんまりそんな風に思わなくて、少しだけ言葉につまった。でも、どうにでもごまかせるような話だった。
 それから、どちらからともなく止めていた足をまた動かして、もういちど帰路を歩き出した。少し歩けばすぐに駅について、電車の座席に並んで座る頃には、赤也のいつもの部活のくだらない愚痴がやっとこぼれてきた。それで、今日はあの話があったから今までテニスの話がなかったのかと、ささいなことばかりが腑に落ちた。
 俺は赤也が思うみたいには驚かなかった。
 だって、俺はひとつ年上だ。同級生たちのなかに似た道を選んだ奴もいる。去年、俺が高三で、周りのそういう話を聞いたとき、すぐに一年後のことを想像したくらいには、俺は赤也のことを気にしていた。
 久しぶりに赤也の試合を見たいと思った。
 高校最後の試合だし、と、全国大会を見に行くことを告げて、「頑張れよ」、なんてありきたりだけど応援の言葉もつけた。
 そうしたら、向かいの窓に向けられていた赤也の視線がこっちを向いたから、すぐに目が合った。赤也はなぜか今になって、少し困ったような顔をしていた。
 俺はなんとなく、右隣に両腕をのばして、そのままその体を引き寄せてしまいたいような稀な気分になった。でもしなかった。それはここが電車のなかで、人がいるからという理由ではないような気がした。俺は今、自分が赤也のことを抱きしめないのか、抱きしめられないのか、うまく区別がつかなくて、よくわからなかった。
 数日後、決勝の試合で赤也は勝利した。久しぶりに目にしたテニスコートは変わらずくすんだ緑色で、あの頃と同じに、うすく陽炎が揺れるようだった。
 
 その決勝の数日後、赤也はまた俺の部屋を訪れた。大会が終わったから、春休みぶりに泊まりの時間が作れるらしく、俺もその二日間はバイトのシフトを入れなかった。
 その日、ふたりで倒れ込んだベッドのなかで、赤也は真っ赤に充血した目で俺を見下ろした。俺たちがチームメイトだった去年や一昨年も、もうずっとテニスの試合でも赤目を見たことはなかった。
 我慢の糸が切れたみたいだった。
 赤也はきっとそうやって、なにか別のことなんかじゃなく、いまは俺のことだけを考え込んでいるのだと、なんとなくわかった。
 赤い目と歪んだ表情が悲しそうに見えた。俺はその目を見て、はじめて俺と向かい合いで泣いた赤也の姿が蘇った。あれは突然のことだった。まだ中三だった赤也は、いきなり俺のことが好きだとか言って、勝手にキスをしてきて、そのあと、やっぱり勝手に泣き出した。あのとき俺は少なくとも驚いて、戸惑って、それで、後から考えてわかったのは、きっと俺はうれしかったんだ。
 あの気持ちをからだが覚えていた。
 しばらく自転車に乗らなくてもハンドルの切り方を覚えていたり、昔流行った曲を久しぶりに聴いたとき、続きのメロディを無意識に口ずさめたり、そういう感覚に似ていた。そんな風に赤也のことが好きだと思った。あのときも、今も。
 俺たちはベッドを抜け出したあと、久しぶりに海沿いの道を散歩して、帰りには最寄りのスーパーで買い物をして、夕飯を並んで食べた。赤也のリクエストのハンバーグカレーを、テレビのバラエティ番組を見ながら。夜には赤也はいつも通り、俺のベッドの横に敷いた客用布団に潜り込んだ。だから、赤也の声は少し低い位置から届く。
 「俺がアメリカ行ったら、俺たちって別れるんスかね?」と、赤也が言った。
 俺が今ひとり寝ているベッドで、夕方、真っ赤な目を見たとき、赤也も俺もあのときからなにも変わっていないのだと漠然と思った。
 それでもやっぱり、「そうなんだろうな、寂しいけど」。そう並べた俺の言葉はなんだか棒読みみたいで、社交辞令の台詞みたいだった。
「やっぱ、そっスよね」
 赤也の寝息が聞こえるのを待った。
 
 俺と赤也がそういう話をしたのはそれきりだった。九月にはジャッカルと海原祭のテニス部の劇を冷やかしに行ったし、赤也の誕生日もあったから、当日付近の日曜日にはゲーセンで遊んだり、ラーメンやらを奢ってやった。赤也は変わらず学校帰りや休みの日には俺の部屋を訪れたし、たまにふたりで出かけた。俺たちにとっての付き合う、はそういうことで、それはぜんぶ距離の近さが叶えているものだった。
 俺たちがこうしてふたりで過ごす、きちんとした意味なんてなかった。ドラマみたいに、恋人同士で支え合って高め合って、なんて、ふたりでいる時間をそういう風に使ったことなんてなかった。
 それでも、俺と赤也はやっぱり意味もなくいっしょに過ごした。そういう時間ばかりを重ねていた。
 
 ◇
 
 雪が積もった。めったに雪の降らない神奈川ではずいぶん久しぶりのことで、最後に積もった雪を見たのは中学生のときだったように思う。
 今日の予定は夕方からバイトで、昼過ぎあたりに、赤也が土曜の練習に顔を出したあとでうちに寄ると言っていた。でも、これじゃあコートでの練習は中止だろうとか、そもそも電車は動いているのかとか、いろいろ疑問が沸いてきて、とりあえず赤也にメールした。まもなくして届いた返信は、「部活は行くのやめるけど 遊びたいしそっちには行こうかな」、なんていう呑気な文面だった。遊びたいし、というのは、雪でってことなんだろう。こいつ、そのためにわざわざ来るのかよ、とも思ったし、チビたちも今頃はしゃいでんだろうな、と実家の風景もつい連想した。
 一時間くらいして、部屋のインターホンが鳴った。いつからだったか、こうして赤也が来るときだけ、その時間には鍵を開けている。赤也もそれを知っているから、インターホンの音のすぐあと、勝手に玄関のドアが開いた。玄関先ではダウンパーカーを着込んだ赤也が白い息をしていて、「おかえり」なんて言ってみたら、なにやら言葉を濁していた。俺が立ち上がってコートを着込むのを見ると、赤也は「出かけんの?」と目を丸くした。
「は? だって、遊びたいんだろい」
「え? あ、雪で?」
「え?」
 こんどは俺が驚く番だった。そんな俺の反応を見て、赤也は込み上げる笑いを抑えるように言う。
「いいっスよ、雪遊びしても」
 俺がやっと自分の勘違いに気づいて、コートを引っかけたまま固まっていると、赤也はとうとう吹き出した。眉をひそめる俺を尻目に、ふつうに遊びに来ただけっスよ、ガキじゃねーんスから、なんて言って、中学の頃、たしかに大雪にはしゃいでいた後輩はなぜか自慢そうにしている。
「でも、雪すげーから、ちょっと外出てみんのもいいかも」
 そう言った赤也の提案を素直に聞きたくはない気分だったけれど、こんな雪の日の勝手がわからないから、今日みたいな量の積雪が、家から出る予定の夕方までに溶けてしまうのかどうかも知らない。たしかに、今のうちに積もった雪の上を歩いてみるのもいいかもしれない、とそのままふたりで部屋を出た。
「うわ、すげー」
 玄関を出たら、外気に剥き出しになっている階段横の塀にも軽く雪が積もっていた。アパートの敷地を出ると、通路の端、植木の足元の土にきれいに積もった雪にはすでに足跡がついていて、それに続くように表面を踏み込んでみると、スニーカー越しに片栗粉のような質感が伝わった。そんなことをしていたら、「丸井さんのほうが雪で遊びたかったんじゃねーんスかぁ?」なんて声が降りかかるから、ポストの上の雪をかき集めて軽く雪玉を作り、生意気な後輩に投げつけてやった。
「うわっ」
「ばーか」
 胸元に命中した攻撃に満足して笑ってみせると、赤也は反撃とばかりに足元から雪をかき集め始めたから、「あ、待て、きれいなやつ使えって」と制したら、案外従順に植木の上に積もった薄い雪に手を伸ばし直すから笑ってしまった。
「油断大敵っスよ!」
 大袈裟な掛け声といっしょに投げられた雪玉は、避けられない距離のものだったから、ついキャッチしてみたら手のひらで崩れた。俺たちはその道で十歩ぶんくらい、そのばかなやりとりを続けて、お互いの素手が冷たくなってきたところで両手を上着のポケットにしまった。
「あーマジさみー、赤也のせいで」
「いや、ぜってーアンタのせいだから」
 言い合っていたら笑えてきて、冗談ついでに、赤也のダウンのポケットに右手を突っ込んだ。いつも俺より体温の高い赤也だったけれど、もしかしたらはじめて繋いだ左手は、ポケットのなかで俺とおんなじくらいに冷たくて、なんの暖にもならなかった。そのことに文句を言ったら、当たり前だと顔をしかめていた。
 俺たちはどちらが言い出すでもなく適当に散歩を続けた。途中、なんとなくコンビニに入ってみたら、アイスのコーナーの前で赤也が「あ」と立ち止まった。なにか新商品でも出たのかと隣に寄ってみると、そういうことではないようで、赤也はやや苦々しい表情をしていた。
「先輩、中学んとき、雪んなかアイス食ったの覚えてる? 外で」
「え? なんそれ」
「忘れたんスか!?」
「……あーあー、あったな。あったわ」
 一瞬、心当たりが見つからなくてわけがわからなかったけれど、中学のときの雪の日といえばあの一日くらいだったから、だんだんイメージが蘇ってきて、いちど思い出したあとの記憶は案外鮮明だった。たしか赤也が期末で赤点を回避したとかで、そのご褒美だとか言ってなぜかアイスを奢ったのだ。
「あれ、なんでアイスだったんでしたっけ」
「……なんか安かったとか、そんなんだった気ぃするな。金なくて」
「あー」
「また食いたい? 奢ってやろうか」
「いや、いいっスいいっス」
 先輩んちにケーキあるんで、と赤也が苦し紛れにうちの冷蔵庫事情を決めつけた。たしかに今うちには、昨日厨房から持ち帰ったケーキがふたつ残っていた。
 
 散歩から部屋に戻ってからは、窓の外の寒さを他人事にして室内でだらだらと過ごした。赤也の午前中の予定がなくなって時間にも余裕ができたから、録画したバラエティ番組を二本流し見した。昼飯のあと、つけっぱなしのテレビの前で、さっき赤也が当てずっぽうに存在を言い当てたケーキを食べた。そのとき、赤也がこんどは「ねぇ、これ、丸井さんが作ったやつでしょ」、と自信満々に本当のことを言い当てたから、俺は驚いて、思わず言葉につまった。軽い雰囲気で持ち出されたそれは、俺にとっては聞き流せない台詞だった。
「……え、なんでわかんの?」
 このドライフルーツのレアチーズケーキはうまくできたと思っていたし、店長にも店に出せるレベルだと褒められた。普段持ち帰るまかないのケーキと並べて、目に見えて浮くような悪い出来でもないはずだから、素直にそう訊ねるしかなかった。そういえば夏にも、俺のつくった別のケーキをこっそり出したとき、もとから俺のつくったものだと思ってた、なんて後出しで言っていた。あのときは張り合うために適当なことを言っているのだと思っていたけれど。
「秘密!」
 赤也はチーズケーキを食べながら楽しそうに笑った。
 なにを聞いても、どうしてわかったのかは頑なに教えてくれなくて、赤也は良くした機嫌のまま、話を逸らすみたいに俺のケーキを天才的だとかプロだとか、調子よく褒めちぎった。俺がそれを適当に流して、やっぱりさっきの発言の理由を聞こうとしたら、とうとう「バイト何時からっスか?」と話題を変えてきた。「四時からだから、三時半くらいには出る」、俺の答えにかぶせて「今日もなんか作んの」と質問が続いた。
「作りたいけど、今日は補助だけ。あと接客と」
「ふーん」
 好きっスねぇ。
 と、赤也はなぜかうれしそうに言った。
 
 赤也は俺といっしょに三時半ごろ部屋を出た。俺のバイト先のケーキ屋は、赤也の乗り込む最寄駅のすぐそばだから、途中まで並んで歩いた。
 積もった雪はまだ溶けておらず、昼に散歩したときよりも空気はさらに冷たくなっていて、しゃべるたびに息が白かった。
 そんな、誰かの誕生日でもなく、クリスマスもまだ先の、ふつうの日だ。
 バックヤードで、着てきたコートをハンガーに掛け、もうずいぶんと着慣れた制服に着替えた。帽子とエプロンと、ボタンの大きなコックシャツ。それから厨房に入って、先に入っている店長やパティシエの社員に挨拶をする。冷たい手じゃ作業が進まないから、手を洗うついでに、水道からお湯を出して手をあたためているときだった。
 俺はいつかこうやって、毎日ふつうの日にケーキを作りたいとふと思った。これから何年経っても。三年後も、五年後も、十年後もずっと。
 それは自分でも驚くくらいに突然で、それなのに、ずっとそばにあったような、当たり前みたいな想いだった。
 
 クリスマスのケーキ屋は客足が絶えない。うちは地元で人気のケーキ屋だから予約だけでも予定はぱんぱんで、社員もバイトも総出で店を回した。今年の春にはバイトがふたり卒業して、俺はそのふたり分のシフトに入れてもらっていたから、小さな店の総人数がひとり減ったこともあって目が回るように忙しかった。
 こうなることは事前に知らされていたから、実家にはイヴの前日に帰って、久しぶりに家のオーブンでケーキを焼いた(その日も店で仕込みの手伝いがあったから、焼くだけ焼いてすぐに帰ってしまったけれど)。今頃、家族は俺のつくったケーキを囲んでるかな、なんて思いながら、レジ横で白い箱にケーキを詰めたり、キッチンでプレートを書いたり忙しなく過ごした。毎年ケーキは焼いていたけれど、こんなに忙しいクリスマスは初めてだった。きっとこれからはずっとこうだ、と、ただひとりで思って、狭いケーキ屋のなかでこっそりと胸が高鳴るようだった。それはもしかしたら、何も知らない子どもの、自信過剰で無謀な宣言なのかもしれなかった。いつかコートで見た、傷だらけの小さな背中みたいに。それでもよかった。それでいいと思った。
 
 クリスマスの数日後、赤也が部屋を訪れた。俺たちはお互いの誕生日にはなにかを奢り合うくらいだったけど、クリスマスだけは毎年律儀にプレゼントを渡し合った(ジャッカルにそれを話すと「そういうもんか?」と首をかしげていた)。もう世間の雰囲気はすっかり年末へと切り替わっているけれど、それはまあ気にしない。赤也はプレゼントにニット帽をくれて、俺のあげたスニーカーにはやたらと感激し、部屋のなかで試し履きなんかしていた。赤也はこういうとき素直に喜ぶから、長いあいだサンタの正体を明かせなかった切原家の気持ちがわかるような気がした。
 あとで、赤也に話をした。まだ誰にも話していないことだった。パティシエになりたいと口に出すのははじめてだったけれど、その声は自分に馴染んで聞こえたし、赤也もこの目標を俺らしいと言った。そして、「俺、食いもん作ってくれたときの丸井さんの顔、好きっスよ」と、よくわからないことも言った。いったいどんな顔なのかと聞いてみれば、「怒るからやだ」、なんて言ってそれも教えてくれなくて、俺はそのことにこそ怒ってみせたけど、俺の怒ったふりなんて赤也にはとっくに通用しなかった。寒いからとか理由をつけて、その夜俺たちははじめて隣で眠った。
 
 中高での部活漬け生活の賜物か、今でも俺の生活は規則正しいほうで、目覚ましをセットしなくても大体いつも通りの時間に目が覚めた。
 布団で寝るのは修学旅行や合宿以来だったから、寝起きの視線が床ほどに低い感覚は久しぶりだった。
 すぐ隣では赤也が寝息を立てていて、起きる気配はまるでない。ちぢこまった体勢か、寝顔の表情か、そういうなにかがあどけない雰囲気を持っていた。
 昨日、本人から聞いたことだけれど、来月には全豪オープン開催期間にちなんだ練習試合がアカデミー内で一週間行われるらしい。赤也はその期間に合わせていちどアメリカに行き、新人戦代わりに試合に出て、ついでに諸々の手続きも行ってからまた日本に帰ると言っていた。そんなわけで、年が明けたらいろいろと忙しく、ここに来る時間はもうないかもしれない、ということも聞いた。
 のっそりと起き上がって朝飯の準備を始める。フローリングの床が今日もつめたかった。冷蔵庫にあるものを適当に調理して、最後にトーストが焼き上がったから、寝ている赤也の肩を揺らして起こした。赤也は眠たそうに両目を擦りながら半笑いで身を起こし、すっかり勝手の知った俺の部屋のなか、起きぬけの猫背で洗面所へと直行していた。
 赤也が泊まりでここに来たのはたしか三度目くらいだけれど、目玉焼きとかベーコンとか簡単なスープ、そういうふつうの朝飯をいつもなぜかうれしそうに食べる。だから俺も、やっぱりいつもうれしかった。
 朝飯のあと、ワンルームの玄関まで、テレビの前に置いたクッションから数歩分だけ赤也を見送った。
 学生向けの安アパートだから、玄関のドアに近づくと外のつめたい空気がうっすら感じられて、部屋着のスウェットのままの俺には少しひんやりと寒かった。
 赤也は、昨夜からきちんと並べて置かれていたテニスシューズを履いて立ち上がる。片手には昨日渡したプレゼントの紙袋が提げられていた。たぶん忘れ物もない。こっちを振り向いて少し揺れた癖っ毛の黒髪が、また伸びたようにも見えた。
「丸井さん」
「うん」
「俺、アンタのこと好きだよ」
 赤也はまっすぐ俺を見ていた。
 「知ってる」、と答えて、「頑張れよ」、と付け足した。
 ほんとうは、赤也がこれから頑張ることも知っていた。こうして赤也の近くにいたなら、俺じゃなくても、誰だってわかることだった。それでも言いたかった。
「はじめてしっくり来た」
 赤也は目を細めて、うれしそうに笑った。
「アンタもね」
 
 ◇
 
 三月、空港にはジャッカルと見送りに行った。赤也の代のレギュラーのメンバーや、赤也の家族も同じく見送りに来ていて、俺たちはちょっとした大所帯になっていたけれど、空港のなかではそれも珍しくなかった。
 赤也は髪を短く切っていた。それを指摘したら、こんなに短くしたのは中一以来だと本人は言っていたけれど、中一のときに赤也がどんな髪型だったかなんて、俺もジャッカルも覚えていなかった。ふたりしてそれを伝えると赤也はちょっと拗ねた顔をしたから、すっきりした頭を軽くさすりながら、今の髪もいい感じだぜ、なんて調子よく褒めておいた。
 見送りはあっけなく終わった。
 保安検査場に入っていく私服姿の赤也の背中は、重々しい旅立ちという雰囲気はあんまりなくて、スーパーとか、ショッピングモールとか、そんな場所にいるようにも見えた。
 空港からの帰り道、赤也の向こうでの会話を心配するような話を持ち出したら、玉川が言うには、赤也は最近、外部を受験する高三よろしく英語を勉強していたらしい。それを聞いたジャッカルが、もっと早くそのやる気を出してくれていたら、あいつに英語を教えていた自分まで真田に怒られずに済んだのに、と嘆いたから、俺たちは笑った。
 空港から地元方面へと走るシャトルバスに乗り込みながら、ここにいる知らない人たちは全員、赤也よりはずっと近くに住んでいるのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
 バスのなか、窓ガラスにもたれながら、飛行機ならあいつでも寝過ごさないから安心だな、なんて、なんども電車を乗り過ごしていた後輩のことを思った。時間にルーズで、うっかりしてて、忘れ物だって少なくなかった。ちょうど一年くらい前、引っ越したばかりの俺の部屋にはじめて泊まりにきたときも、たしか携帯を忘れていったんだ。
 一年間暮らした、ワンルームの俺の部屋。
 玄関のドア。
 赤也のテニスシューズ。
 ひんやりと伝わる冬の外気。ながい髪の後ろ姿。
 俺もだって言えばよかった。
 
 ◇
 
 グレーのパーカーから、指定の帽子とエプロン、ボタンの大きなコックシャツに着替える。
 街はまた春を迎えて、この店でバイトを始めてからもう二年が経っていた。つまり四年間の大学生活も半分が過ぎていて、パティシエ修業も学校のことも、最近は特に忙しく、やらなければならないことが日々山積みだった。
 厨房に入って、店長と社員に挨拶をして、その日に出すケーキの仕上げをする朝の作業に加わる。
 俺がシュークリームの皮の焼き戻しをしていると、ふと思い出したように店長が「そういえば」と口を開き、「昨日、また丸井くん目当てのお客さんが来たよ」、なんて物腰やわらかく続けた。昨日は俺はシフトに入っていなかった。
 俺がパティシエを目指していることも、そのためにここでバイトしていることも友達はだいたい知っているから、店が大学から近いこともあって、たまに誰かがケーキを買いに来てくれる。俺の不在時にも、そんな風に友人が訪ねてきたらしいことが前にもあった。
「すんません、店長忙しいのに、友達の相手させちまって」
「いやいや、全然いいよ。むしろありがたいからさ。丸井くんはお休みだけど代わりにって、あのケーキを紹介したら買って行ってくれたよ。ドライフルーツのチーズケーキ」
 それは俺が試作品のレシピを作って、店長が少し手直ししてくれて完成し、去年から店に並び始めた商品だった。そうやって自分のアイディアのケーキがショーケースに飾られて、友達が買って食べてくれるのは素直にうれしかった。誰が訪ねてきてくれたのか、大学の友人の顔を何人か思い浮かべていたら、店長が言った。
「パーマかけてて、黒髪で、結構がたいのいい男の子だったけど、大学の友達かな」
 そうやって挙げられた条件に当てはまる友人にはなかなか心当たりがなくて、だから、その場しのぎの返答をして会話は終わってしまった。でもそのあと、ふと、頭のなかをかつて見慣れた面影がよぎった。それはもう、心当たりなどという悠長なものではなかった。突然にじみ出た、自分のそんな強い気持ちが、客観的な確信なのか、それともただの期待めいたものなのか、自分では判断がつかなかった。
 それでも、いつだったか、「とりあえず一年は留学期間が決まってて」なんて、たしかに言っていたのだ。
 こういうときでも、気持ちを切り替えて集中すれば、時間の流れはいつも通りだった。すぐに昼が過ぎて、夕方になった。バイトの上がりの時間が来たから、明日の仕込み作業の手を止める。朝の逆再生みたいに、挨拶をして厨房を出て、グレーのパーカーに着替えた。
 店を出て、海の方角へと、最近ずいぶんあたたかくなった帰路をまっすぐに辿る。行く道で、いつの間にかもう十近くも年下だろう、真新しい深緑の制服を着た中学生たちとすれ違った。
 頭のなかの確信も期待も、わからないままだった。
 それでも、知っていることがある。
 携帯の通話履歴にその名前はしばらくないままだから、電話帳から名前を探した。四月のことだった。