エスパー
 
 
「赤也、これ」
 丸井さんが俺に差し出したのはチョコレートだ。どこのコンビニにも売られている、赤いパッケージのやつ。
 それを危うく受け取りかけたのはコンビニの店内で、今週のジャンプの表紙をなんとなく見ていた、雑誌売り場にてのことだった。
「は?」
 近くのお菓子の棚から取ってきたばかりに見える、会計済みではなさそうなそれを差し出される意味がわからなくて、疑問の声が一音、口をついて出た。
「もうすぐバレンタインだろい」
「……は?」
 それにしても意味がわからない。
「だから、これ。ちょーだい。買って」
「え、くれんじゃねーんスか」
「は? やんねーよ」
「俺だって買わねーよ!」
 そんな無茶苦茶なねだりかたに真っ当な主張を返してみれば、目の前の先輩は柄悪く舌打ちをして、片手に持ったままのチョコレートをひとりレジまで運んでいった。
 
「自分で買ってるし。ふつーに食いたかったやつ、奢らせようとしただけじゃん」
「ちげーから」
 コンビニを出て、吹きつけてくる外の空気に、俺がさみぃとかなんとか言ってるうちから、隣で丸井さんは早速袋を開けていた。買ったばかりのチョコレートを頬張りながらの否定には、説得力なんてものはなくて、ため息をついたら、横から頭を小突かれた。
 丸井先輩とは、今日みたいに、帰りに校門のあたりで待ち合わせすることがあった。俺が部活に顔を出す日のうちで、お互い気が向いたときだけだから、たまにのことだけど。
 学校から駅まで歩いて、一本目の電車を乗り換えたあと、路面電車の最寄り駅を見送って、もうひと駅先までふたりで歩く。それは俺たちが去年付き合い始めてから、どちらからともなくつくった、たまの習慣だった。ときどきそうやって、普段より少しだけ長く話をした。話した途端に忘れてもいいような、いつものくだらない話だ。学校とか、漫画とか、家族とか、さっきのチョコの話も、そういうもののひとつだった。
 それでも、その日からコンビニに行くたびに、お菓子売り場のそのチョコレートが目についた。品揃えの良いラインナップのなかの赤いパッケージは、人混みでも目立つ赤い髪に少しだけ似ていた。どこのコンビニにも、大体バレンタイン用の、ちょっとだけ良いチョコのコーナーが特設されていたけれど、先輩の食べていた洒落っけのない安いチョコレートは、いつも通りの場所にあった。
 
 ◇
 
 帰りのホームルームが終わって、今日もらったチョコレートたちを鞄のなかに押し込んだ。今年のバレンタインは、去年までよりたくさんの数をもらえて、結構気分がよかった。クラスの女子とか、女テニのやつらとか、あとは、顔も知らない後輩の女子たちからも声がかかって、べつにどうでもいい相手だって、そういうのはうれしかった。
 やっぱ、女子には「センパイ」のほうがモテんのかな? なんて、去年まで同じ中学校舎にいたテニス部の先輩たちを思い浮かべながら、そんなことも思った。ひとつ上の学年の先輩たちはやたらとモテて、そのなかでも特に何人かは、山のようにもらったチョコレートを紙袋にまとめて入れたりなんかしていた。そのくらい人気だったのは、たしか、幸村さんとか仁王さん、あとは、丸井さん。部室に置かれたその袋が、なんだか嫌味っぽく見えたのを覚えている。
 今年はどうなんだろ。
 べつに、どうでもいいけど。
 頭の端で考えるのをやめて、部活に向かうために椅子から立ち上がった途端、制服のポケットに入れている携帯が震えた。立ったままそれを開くと、メールが一件来ていた。
 
 一緒に帰る?
 
 差出人は丸井さんだった。噂をすれば、みたいに、さっきまで思い浮かべていた人だ。ぼんやりと、もういちどその姿が頭に浮かんで、想像のその人が手に持っている、たくさんのチョコレートの嫌味っぽさも一緒に思い出した。だから、なんとなくムカつく気持ちにはなったけれど、メールの内容を断る理由にまではならなかった。
 部活終わりの時間、待ち合わせ場所の校門前には、まばらに歩く中高の生徒たちに混じって、赤い髪の後ろ姿があった。名前を呼んだら振り向く、見慣れた顔。高校の焦げ茶色の制服に、私物のベージュのマフラー。丸井さんが中学までの指定のマフラーをもう巻かないのも、そういえばいつのまにか、この冬ですっかり見慣れていた。
 「あー、腹減った」、なんて、ほとんど口癖めいた言葉をぼやきながら隣を歩く先輩は、例年通り、チョコレートのわんさか入った紙袋を両手に持っていた。いかにも手作りらしい、丁寧なラッピングのものが覗いて見えて、俺はやっぱり例年通り、なんとなく癪な気分になった。
「それ食えば? 食い放題じゃん」
「ん? あー」
 丸井先輩は手袋を持った片手を少しあげて、「確かにな。ありがてー、しばらく困んねぇわ」と笑った。
 笑ったついでみたいに、丸井さんは、ブレザーのポケットに片手を突っ込んで、何かを取り出した。それはあの赤いパッケージの、コンビニで買えるチョコレートだった。
 こんな道でさっそく食べられてしまうらしい、その市販のチョコを横目で見やる。歩きながら丸井先輩が隣で何か食べ出すことなんかべつによくあることだから、何も思わずにいると、「ん」、と、先輩はその袋を開けることはせずに、俺のほうに差し出した。
「やるよ、バレンタイン」
 袋の端をつまむようにして、目の前でぷらぷらと揺らされているチョコレート。
 俺はちょっと呆気に取られて、それと、何日か前に、コンビニのなかで同じチョコレートを差し出されたときの記憶が浮かんで、一瞬固まってしまった。そうしたら「いらねぇの?」なんて急かされるから、思わず急いで受け取る。
「お前は? くんねぇの」
「……何も持ってきてないっス」
「あっそ。じゃあホワイトデーよこせよ」
 そうやって当然みたいに、丸井さんは俺と、バレンタインとホワイトデーなんかを結びつけた。俺は今までそんなことを考えたことがなくて、戸惑いとか、やたらと照れくさい気持ちにもなって、「そういうもんなんスかね」、と思ったことを言った。付き合ってたら、といういまの状況を仮定としてつけるのは、余計に照れくさくて省略した。
「まあ、べつに、どっちでもいいけどさ」
 チョコレートには手をつけずに、いつものガムを膨らましている丸井先輩の口ぶりは、普段通りに本音らしかった。
 それに少し安心して、適当に相槌を打ちながら、手のひらの、受け取ったばかりの赤いパッケージのチョコレートをまじまじと見つめてみる。
「これ、貰いもんとかじゃないっスよね?」
 思いついた疑惑を口に出すと、丸井先輩は声をあげて笑った。
「心配すんなって。ちゃーんと赤也のための……つっても、今朝、すっげぇチョコ食いたくなってさ。学校まで待てなくて、自分用に買ったやつだけど」
「うわ、そんなこったろーと思った」
 俺が眉をひそめると先輩はまた笑って、「でも、赤也にやるよ」、「それで取っといたんだぜ」、そうやって続けた。
 それから、いつもみたいにくだらない会話で、帰り道を進んだ。丸井先輩が教えてくれた、今日のジャッカル先輩は気になってる女子に話しかけられるたびに緊張した顔をしていた、なんて話を聞いて、心底笑えるくらいに、いつのまにか癪な気分は消え失せていた。だらだらと話を続けて、そうしているうちに、今日もあっという間に、乗り換え先の路面電車の最寄り駅まで着いた。合図もなく、ふたりでそこを素通りする。
 少し先にある、長い横断歩道を抜けたところで、会話がいちど途切れた。
 風が吹いて、思わず小さく身震いする。今日は朝からとびきり寒い。
 さっきまで着ていたテニス部のユニフォームと比べて、マフラー付きの制服は暖かいはずなのに、コートを走っていた時間と今とでは、体感温度はまるで反対だった。
 俺と丸井さん、どちらも口を開かないその時間は、沈黙と呼ぶほどのものではなかった。少しして、丸井さんが俺の名前を呼ぶ。
「なんスか?」
「お前、今日チョコもらった? 他から」
 その人はそうやって、今日、待ち合わせてすぐの、校門のそばを歩いていたとき以来に、バレンタインの話を持ち出した。
「今年は結構もらったっスよ! アンタほどじゃねぇけど」
「……ふーん」
 そんなやりとりのあと、先輩が急に立ち止まったから、顔を見るために振り返ると、先輩の後ろで、渡ったばかりの信号が点滅しているのが見えた。「赤也」、もういちど名前を呼ばれて、丸井さんに少し近づいたら、紙袋を持ったままの片手が俺の後頭部に回されて、さらにそばに引き寄せられた。先輩の持つ、かたい紙袋が制服越しに俺の背中に当たって、そのあと唇がふれた。
 一瞬のあと、鼻先のふれ合いそうな距離で、丸井さんの茶色い目が、静かに俺を見つめた。
 さっき、チョコレートを差し出されたときみたいに固まっている俺に、丸井さんは満足そうにふっと笑ってみせた。それが合図みたいに、ふつふつと、なにかしてやられたような気分が少しずつ込み上げて、ちょっとムカついて、でも嫌じゃなかった。こういうとき、いつもそうだ。
「……脈絡ないっスよね、いつも」
「そーか?」
「そーっスよ」
「お前がブスッとしてっからだろ」
 俺がモテモテだからって。
 軽い調子の、冗談っぽい言い方だったけど、そう付け足された瞬間、思わず反射みたいに否定した。
「してねえ!!」
「ははっ」
 丸井さんは機嫌よく笑って、笑い声はつめたい空気のなかで白く、目に見えた。本当に、べつに、ブスッとなんかしていない。さっきの癪な気分なんて、とっくにもうなくなってたし。反論はうまく言葉にならないままで、顔のあたりに血がのぼっていくことばかりを自覚した。
「心配いらねーのにさぁ」
「だからしてねぇって!」
「うん、俺もぜーんぜんしてない」
 口元だけで得意げな笑みを浮かべる先輩は、止めていた足で、中断した帰り道を進みはじめた。
「マジうぜー」
 俺も一緒に歩き出して隣でつぶやいたら、横からのびてきた手のひらが、俺の頭をわしゃわしゃと無造作に撫でつけた。
 路面電車のひと駅ぶん、徒歩でたったの十分ちょっとを引き伸ばした帰り道で、ブレザーのポケットに手を突っ込んだ。
 指先にふれる、チョコレートのはいった袋。
 なんとなく、これをくれた人の横顔を盗み見る。それで、先輩の、寒さで少し赤くなった鼻先が、俺の唇のそばにふれてつめたかったことを、ついさっきのことを思った。
 そうしたら先輩の目線がこっちを向いたから、そのまま目を合わせているのも、黙っているのもきまり悪くて、目を逸らしながら出てきた言葉は、「つーか、コンビニのチョコってしょぼくないスか」、とか、そんなものだった。
「うっせ。用意してねー奴が文句言うな」
「いてっ」
 今度は頭をはたかれて、それにも重ねて文句を吐けば、丸井先輩はまた笑った。声をあげるかあげないか、曖昧な笑い声が、やっぱり白く目に見えた。