スーサイド・ダイビング
 
 

 丸井先輩の誕生日っていうのは、ちょっとした春のイベントみたいだ、なんて風に思う。
 「イベント」当日である今日は、四月の中旬の終わり頃。三年に進級して、新しい教室とかクラスとか、それと部内に新入生がいることにも慣れてきた、なんてときだった。
 入学したての一昨年のことは記憶にないけど、去年はたしか、朝練を終えて海林館を出たら、数人の女子が丸井先輩を待ち構えていた。そのあとクラスに戻ってからも、今日は丸井先輩の誕生日だという話題がちらほら周りの女子の会話から聞こえてきて、すげえな、なんて思ったのを覚えている。授業後、テニス部の部活が終わるのをわざわざ待って、差し入れやらプレゼントやらを渡したりしている奴らも何人か居た。ここまで来ると、本当に軽く何かのイベントみたいな雰囲気で、何よりそれだけ大げさに祝われている本人が、それらを当然のように、いつも通りのさらりとした笑顔で受け取るものだから、俺はまた、すげえな、と嫌味な感心をさせられた。(あの代の先輩たちは女子に人気のある人が結構多かったけど、誕生日にああも騒がれていたのは丸井先輩だけだった。と思う。)
 今は俺たちが最高学年で、朝練も高校のテニス部とはもちろん別々だから、今年は朝のホームルーム中、例のごとく聞こえてきた女子たちのひそひそ声の会話から、その「春のイベント」が今日なのだと知った。
 その日、そんな風に丸井先輩の名前を耳にすることはあっても、本人の顔を見かけることはなかった。学校の敷地内ですれ違ったのに気づかなかった、ということはたぶんないと思う。先輩の髪は目立つから。
 
 去年の九月、俺の誕生日。丸井先輩がお祝いのメールをくれて、その後ラーメンと映画を奢ってくれたことをきちんと思い出すあたり、俺も少しは律儀なのかもしれない。
 そういえば同じとき、他にも何人かから連絡をもらったような気がするけれど、その人たちの誕生日はあんな風には騒がれていなかったから、俺はいつだか知らない。知らないから、お返しに祝い損ねているのか、まだその人の誕生日が訪れていないのか、どっちなのかもわからない。
 自室のベッドに腰掛けて、そういう、誕生日のことをぼんやり考えながら、携帯をいじる。
 丸井先輩の誕生日が今日なのは、今日が「イベント」だったから知っている。
 だけど、なんとなく、お祝いのメールを送る気にはならなかった。他人の誕生日に文句があるわけもないし、そりゃあおめでとーございます、とは思うのだけれど、それをわざわざメールで打ち込んで送る、という行為を俺があの人にするのが、なぜだかその日は気に入らなかった。いつも奢られる側のあの丸井先輩に、去年ああやって色々奢ってもらったんだから、べつにメールくらいすればいいのに、と自分でも思うのだけれど。序盤とは一変して、俺ってこんなに律儀じゃない奴だったっけ、とまで思わせられてしまった。
 
 ◇
 
 翌日の土曜日は、高校生との合同練習の日だった。一つ上の代が高校に入学してからは初めての合同だから、先月までの「高校生」たちに混じって、高校のジャージを着ている幸村さんたちがちょっと新鮮に映った。
 そのなかには当然、丸井先輩の姿もあった。それで昨日、先輩の誕生日をスルーしたことが少し頭をよぎる。まあ、別にあれだけ色んな奴らに派手に祝われていれば、俺からまで何か巻き上げられなくとも気に留めていないだろう、とか、そもそも丸井先輩だって、俺のことをそんなにまめに他人の誕生日なんか祝う奴だと思っていないだろう、とか、自分への言い訳みたいなものを、いくつか頭のなかで並べていたのも束の間で、練習が始まってからはそんなことを考える暇はなくなった。
 その代の先輩たちのプレイはさすが、少しのブランクも感じさせないもので、というか、そもそもブランクなんか生まれる隙もない日々を過ごしていたんだろう。そんな先輩たちと久しぶりに打ち合えて、その日の練習はあっという間に終わってしまった。
 練習終了の号令を終えて、着替えも終えて海林館を出ると、その少し先に、コートのフェンスにもたれかかりながら話している丸井先輩と、ジャッカル先輩が居た。先輩たちはすぐにこっちに気がついて、
「お疲れぃ」
「お疲れ」
 俺と、その横にいるレギュラーの奴ら全体に、という感じでそう言った。さっきまでの合同練習でも散々同じコートにいたふたりなわけだけど、こうやって近くで顔を合わせるのは今日初めてだった。丸井先輩が、「赤也」、と俺を呼ぶ。
「なんスかぁ」
 先輩はその場から動かないくせに、そのまま何か言ってくるわけでもなかったから、俺たちの間にあった三歩ぶんくらいの距離を俺が詰めてやると、先輩はにっと笑った。丸井先輩の、そういう余裕を含んだいつもの笑みは、何かを企んでるようにも見えなくもない表情で、俺はほんのちょっとだけどぎまぎした。
「これ、サンキュ。借りてたやつ」
 そんな俺に先輩が差し出したものは、数ヶ月前に貸していた漫画の単行本、四冊が入った紙袋だった。丸井先輩とはよく漫画の貸し借りをしている。一年以上前から新巻が出るたびに貸しているものもあるし、これはべつの、一巻から新しく貸し始めたものだ。
「ああ、はい」
 それを受け取って、「これの続き、こないだ出たっスよ」、と手に持った紙袋を見下ろしながら伝えた。どうでもいいけど、貸したときとは紙袋が変わっていた。たぶんお菓子か何かのものだと思われる、ファンシーな袋になっている。
「マジ」
「そういや、いつも貸してるほうもだ」
「マジか」
 ふたつの漫画の最新の情報に手短なリアクションをよこす丸井先輩に、「月曜に持って来てもいいっスよ」、と、良い後輩らしく提案すると、先輩は感謝するどころか、何が不満なのか、無表情で「んー……」と何やら考え込むそぶりを見せた。
「いや、今日もらいに行くわ。お前んち」
「え」
 いきなり一方的に決定された予定に固まっていると、背中に「切原ー、先行ってるね」と同級生から声がかかる。「丸井先輩、桑原先輩、お疲れ様です」と礼儀正しく続くその声に、ふたりは再び「お疲れ」と声を合わせた。
「どう?」
「別にいいっスけど……わざわざ?」
「ジャッカルも行くだろい? 赤也んちまでー、散歩的な?」
「ああ、行ってもよかったが、今日は店の手伝いに行かねぇと」
「そーなん。直接?」
「ああ」
「そっか」
 自分が漫画を借りるために俺の家まで来るのに、当然のようにジャッカル先輩も連れていこうとする丸井先輩と、慣れのせいか、その流れに違和感をさらさら持っていないらしいジャッカル先輩。そういうやりとりには俺だって慣れていたけど、近所とは言えない俺の家を訪ねて来るくらい、丸井先輩が漫画にハマっているのが意外だった。
 それでも俺はべつに構わなかったから、受け取ったばかりのファンシーな紙袋を片手に、ふたりと歩き始める。
「それじゃあ、ブン太、赤也。俺はこっちだから」
 校舎を出て最初の交差点で、ジャッカル先輩が言った。ジャッカル先輩が家の店の手伝いをする、という日には大抵ここで別れる。そういうとき丸井先輩は、客としてラーメンを食いに行くのか、それとも一緒に店を手伝いに行くのか、ジャッカル先輩と一緒にあっち側の道へ進んでいくことも多かったけど、今日は漫画を読みたい気分らしかった。
 ふたりになった俺と丸井先輩は、最寄り駅までの道を歩き始める。
「そういや、今日は電車の日かよ? ちょうどよかったな」
 駐輪場に寄らずに学校を出た俺に、丸井先輩が尋ねた。
「そっス。今日は早起きしたんで」
「ははっ。お前のその理屈、おかしいから」
「俺のチャリの方が速いっスからね。江ノ電より」
 先輩はもう一回小さく笑った。その、声を出すか出さないかのあいだみたいな笑いかたを、久しぶりに聞いたような気がした。それで思い返してみれば、この人とこうやってちゃんと話すのが、そもそも久しぶりだった。一か月と少し前に先輩たちの卒業式があって、そのあとに一回、皆で焼肉に行ったけど、それが最後だったかもしれない。
 横を歩く丸井先輩が当然みたいに着ている、高校の焦げ茶色の制服を、目線だけでちらりと見やった。卒業式では胸元に花の飾りなんかをつけられていた、俺と同じ色の、くたびれた深緑の制服を着ているイメージしかないものだから、全然見慣れない。
 
 並んで帰り道を歩くなかで、丸井先輩とは趣味が合うから、テレビの話とか、それこそ貸し借りしている漫画の話とか、話したいことはいくらでもあった。
 途中で部活の調子を訊かれてからは、レギュラーがどうだとか、新入生がどうだとか、今週は新歓があっただとか、話すことがもっとたくさんあった。
「新歓なあ」
 話の途中で、丸井先輩が、半笑いみたいな声色でそうつぶやいた。それがどういう意図を含んでいるのか俺にはもちろん理解できたから、わざとらしいくらいに、あの大人げなかった、横にいる先輩を睨みつけてみる。
「俺は忘れてませんからね、先輩」
 そう言うと、丸井先輩は声色通りのにやついた表情で、「はいはい」と頷いた。
 二年前、俺が中一の頃の新入生歓迎会。当時二年生だった丸井先輩が、俺に声をかけてきたついでに髪のことをからかってきて、それで頭に血がのぼった俺はつい先輩を殴ってしまって、そうしたら速攻で殴り返されて、そのままふたりで真田さんにこっぴどく叱られる、なんていう事件があった。
「はいはいじゃねんスよ」
「そーかそーか」
「そーかそーかもちげぇ」
 二年も前のことだし、べつにまだ本気で怒っているわけじゃなかったけど、今ではいちばんと言っていいくらいに親しくなった先輩と、出会ってすぐの頃に本気で殴り合ったなんて記憶は、なんだか気恥ずかしいものだった。でも、当時の丸井先輩にムカつくのは事実だから、あれはとりあえず先輩が悪いだけの、ただのムカつく思い出、だということにして頭にしまっておく。
 そういえば、その日も丸井先輩とふたりで、こんなふうに駅まで歩いたんだ。あの日しこたま叱られた俺たちは、ふたりで居残りして、新歓の教室の片付けをさせられてたから。そんなことでもないと、丸井先輩とふたりだけで帰ったりする流れにはならない。いつかみたいに、偶然道でばったり居合わせたりだとか、今日みたいに、先輩がわざわざうちまで来る、なんて突然言い出した日は別だけど。
「寄ってく?」
 コンビニの手前に着いて、丸井先輩が言った。俺たちが部活帰りにそのコンビニに寄ることはほとんど習慣づいていたから、「もちっス」、なんて答えた瞬間に、ふと、昨日が丸井先輩の誕生日だったことを、本日二度目、再び思い出した。丸井先輩はバレンタインだとか、何か食い物をたかるための理由付けをするのが得意だから、きっと昨日の誕生日を理由に何かたかられる、と思った。もしかしたら、そのためだけに俺の家まで一緒に来るなんて言い出したのかもしれない、とすら考えた。
(……まあ、べつにいいけど)
 こんな風にわざわざ一緒にコンビニに来てまで、先輩が菓子やら何やらを奢って欲しいと言うのならば、しょうがない。自然とそういう気分になっていた。そんなにたくさんは無理だけど、適当なお菓子を二、三個くらいなら、財布のなかの小銭でぎりぎりまかなえるはずだ。
 そんな俺の勘繰りと、せっかくの覚悟を裏切って、丸井先輩はごく普通に、自分でお菓子とホットスナック、合わせて三つを買っていた。
 
「うっま」
 コンビニスイーツのプリンの一口目を飲み込んだ先輩は、やたらと新鮮そうな反応をした。なんでも春限定の商品らしい。
丸井先輩はいつも、季節限定のコンビニスイーツを一通り試すから、こんなふうに帰り道でその感想を聞くのはよくあることだった。
 歩きながらプリンを食う人も、久しぶりに見たな。そう思うとちょっとした笑いが込み上げてきて、思わず声を出して笑うと、「あ?」と柄の悪い目つきが向けられる。俺は「いや、」と言い訳めいた別の話題を探して、
「ぜってーたかられると思ったっス、コンビニで。誕生日だったから」
 と、言い訳どころか、若干失礼な言動を追加してしまった。すると丸井先輩は、一瞬きょとんとした表情をして、「覚えてた?」と訊いた。
「覚えてたっつーか、まあ」
 まあ何なのか、先輩は特に訊いてこずにプリンを口に運び続けるから、ちょっとのあいだが空いたあと、「風の噂で」と付け足した。
「……おめでとーございました」
「ありがとーございました」
 先輩は唇をきゅっと横に引いて、笑う。その口で、プラスティックのスプーンを最後に一回くわえて、プリンを食い終えた丸井先輩は、ポケットからガムを取り出した。
「まあ、俺は赤也に、すっげー誕プレもらったことあるからな」
 先輩は、含みを持たせた言い方でそう言った。それはあんまり良い予感のするものではなかった。そもそも、俺は過去に丸井先輩にプレゼントなんかあげた記憶はないから、その台詞が言葉そのままの意味合いではないことは明白だった。
「……え?」
 なんとなく嫌な予感はしつつも、その含んだ言い回しの種明かしを促すつもりでそう聞き返す。俺の表情はやや引き攣っていたと思う。
「新歓パンチ」
 丸井先輩は風船ガムを膨らませながら、ウィンクまで付けて、拳のポーズを俺の顔面ぎりぎりに突き出した。
「えっ、誕生日だったんスか、あれ」
「おう。だから去年も今年も思い出してたぜ、誕生日に。あんときは一年坊主にいきなり殴られたなあー、つって」
 一瞬さすがに申し訳ないような気持ちになりかけたけれど、そう続ける丸井先輩は寧ろ少し楽しそうで、それで、あの日は俺だって、しっかり殴り返されたことを思い出した。そもそも俺がキレたのだって、丸井先輩のせいだし。そう反論すると先輩は、「確かにな」、と、思っているのかいないのか、口の端を上げたまま頷いた。
「今年の新歓は平和だったか?」
「そうっスねぇ。そういう、新入生をからかうような先輩もいなくて」
「先輩をぶん殴るような問題児もいなくて」
「うっせー」
 そんな軽口を交わしながらふと顔を上げると、通学路、海沿いの通りの桜が、もう半分くらい散ってしまっているのが目についた。先輩たちの卒業式のときは、まだ咲ききらない様子だったそれが、先週あたりの帰り道には満開になっていて、なんだかそのときは、国語の教科書に載っている写真みたいだ、なんて思ったんだ。
 先輩もあれを見ただろうか。
 訊いてみようかと思ったけど、なんだかそれが俺たちに似合わない、いわゆる風情のある会話、というやつのような気がして、気恥ずかしくなってやめた。
「お前、桜が満開だったとき、ちゃんと見たか?」
 やめた途端に、俺の用意しかけた台詞をそのまま言われて、つい、一瞬押し黙る。
「……見てたっスよ」
 そう答えると、先輩はなぜか少しうれしそうに笑った。
 潮風が吹きつけるたびに、簡単に散っていく花びらは無防備で、足元に溜まった、ほとんど白に近いたくさんの花びらをシューズで踏んで歩いた。俺も。先輩も。
 この人は、俺より一回ぶん多く、この桜が満開になる季節をここで過ごしてるんだな、なんていう、当たり前のことをなんとなく考えた。
 その、たかが一年の差がとてつもなく大きいことを、俺はよく知っていた。
 
 それから先輩は俺に部の話の続きを促して、すると自分でも驚くくらいに、話すことが尽きなかった。先輩はいろんな具体的なアドバイスをくれた。とあるダブルスプレイヤーの部員が伸び悩んでいる話をしたら、練習試合でいちど赤也がペアを組んでダブルスの試合をしてやれ、と言われたときは少し驚いた。お前ははたから見てるよりも、同じコートのなかに入って感覚でわかるタイプだし、赤也がいちばんあいつのダメなとことか、良いとこに気づけると思うぜ、とはっきり言われて、少し照れくさいような気持ちもあったけど、丸井先輩が当たり前みたいな口ぶりで淡々と言うから、俺もそういうそぶりで受け取った。
 テニスの話をしていたら、あっという間に最寄り駅について、改札をくぐる。
 電車を一本乗り換えて、緑色の座席に並んで座った。同じ電車には部活帰りの立海生がちらほら乗り合わせていた。テニス部の奴らも、どこかに乗っているかもしれない。
 向かいの窓からは、黄色とオレンジのあいだみたいな色の夕焼けと、それを映した海が見える。空よりも、海の水面のほうが少し眩しく見えたけど、しばらく前を向いていると目が慣れてきた。水面の高さは、区切られた窓の枠のなかで、電車が進んでもずっと位置が変わらなかった。
 がた、がた、がた、電車の一定のリズムに揺られながら、そんな水面を見るともなく見ていたら、だんだんと眠気が襲ってきた。先輩との会話にいつのまにか生返事を返している自覚を半分くらい持ったまま、眠気に、ふ、と身を任せてしまうのは、俺の悪い癖だった。
 
 がくん、と、からだごと揺られた。瞼をゆっくり、少しだけ開く。
(……また寝てた)
 乗り物の揺れのせいで眠りについたのに、やっぱりその揺れで起こされるというのは、俺にとってはよくある一連の流れだった。
 半分だけ開けた瞼から見えた窓は、さっきまでと違って、斜めに傾いている。窓の傾く方向とは反対の、左側に俺の頭も傾いていて、左頬には布みたいな、少し硬いような感触があった。それにぼんやりとした違和感を抱いていたのは一瞬のことで、すぐに意識だけがはっきりと覚めた。
 俺の頭を預かっている肩から、焦げ茶色の袖がのびていた。まだ見慣れない、焦げ茶色の制服。
「…………」
 俺はなぜか、その瞬間、ばれたらまずい、と思った。
 何がばれてはいけないのか、具体的なことが浮かぶ前に、まだ寝ぼけているのかもしれないけれど、直感的にそう強く思った。
 何を隠しているのか自分でも曖昧なまま、俺はできるだけ、とりあえずいつも通りの自分を装って、丸井先輩の肩からゆっくりと顔を起こした。
 俺が起きたことに気づいた先輩は、少し伏し目がちな視線で俺を見た。
 さっきよりも赤い夕日の光が向かい側から差し込んで、先輩の髪の毛の先のほうが、赤く透けるみたいに光って見えた。
 さっきよりも淡いような、薄いような、そういう風に見える茶色い目が、細められた。俺のことを見たまま。
「すげぇな。ちょうど降りる駅だぜ」
 先輩がそう言って、電車はゆっくりと停まる。先に立ち上がった丸井先輩は、座りっぱなしの俺に、「まーだ寝てんのか?」、なんて言ってまた笑う。
 足元をすくわれる。
 前にもそう思ったことがある。
 いつも理由はなかった。
 こうやって先輩と居るときとか、先輩のことを考えているときに、上手く言えないけれど、何かにすごくこだわっているみたいな気持ちになったり、喉の奥が少しだけ締まるような感覚になることがたまにあった。
 そういう気持ちはいつも、何か強い匂いみたいに俺の胸のあたりに立ち込める。そのことに意味とか、目的みたいなものは特になかった。
 そして、その思いや感覚が、俺にとってすごく特別なものってわけでもなかった。もっと大事なものなんか、いくらでもあった。
 そういうことを、だんだん冴えてきた頭の奥のほうで思った。
 俺も立ち上がって、電車を降りる。
 
 家からの最寄り駅を降りて、見慣れた道のりを歩く。駅を出てすぐのコンビニとか、本屋とか、電柱に貼られた年季の入ったポスターとか、通学路のなかで目に入るそれらのものが見慣れたものであればあるほど、普段ここにいるはずのない丸井先輩と一緒にこの道を歩いているのは、なんだか変な感じがした。
 先輩にとっては見慣れない道を歩いているはずなのに、先輩のほうがよっぽど堂々としているように見えた。
 さっき俺が電車で寝てしまうまで聞いてもらっていた、練習試合でのオーダーの組み方とか、ミーティングにかける時間とか、レギュラーの練習時間の使い方の話の続きをしているうちに、家のそばまで着いてしまった。
「とりあえず、結局は順調ってことだな」
「そりゃーもちろんっス」
「だよな」
 丸井先輩の、その言い方がなんだか満足そうだったのが、俺も少しうれしかった。部の現状をこうやってまとめて話して、それを順調だと言ってもらえたことで、なんとなくしっかりとした自信めいた感情が湧いてきた。自信はもともと、いつだってあるけど。
 ふと、自分が右手に持っている紙袋の存在を思い出す。いろいろ話し込み過ぎて忘れていたけれど、先輩は漫画の続きを借りるために俺の家まで来たのだということを思い出した俺は、先輩を玄関に待たせて、一旦家に入った。部屋に戻って、例のファンシーな紙袋の中身を、貸し出すつもりの漫画二冊と入れ換えた。玄関に戻ってきてそれを渡したら、先輩は、ああ、と受け取った。
 この二冊のためにわざわざこんなところまで来たわりには、さっきまで俺の話を聞いてくれていたときと比べて、ついでみたいなリアクションだった。それで俺は今日、先輩が、テレビや漫画の話だとか、高校の話なんかをそこそこに、俺の部活の話ばかり話題にしていたことに、やっと気づいた。
「サンキュ。読んだら返すわ」
 そんじゃ、またな。そう言って先輩は、肩にラケットバッグと、左手に紙袋を持って、俺のいつもの通学路をさっきと逆向きに歩き出す。
 あの、飄々とした足取りで、先輩が数歩ぶん遠ざかるのを見送った後、「丸井先輩!」、と、やっぱり声をかけた。先輩が振り返る。
 俺は小走りで近づいて、ブレザーのポケットからチロルチョコをみっつ取り出し、そのまま差し出した。
「あげる」
「お」
 先輩は、手のひらに落とされたそのみっつの小さな四角形を見て、もう一度「おっ」と声をあげた。さっきよりも明らかにテンションの上がった声色だった。
「サンキュー、ちゃんと俺の好きなやつじゃん。これ、誕プレ?」
 誕プレ。その言葉を認めるのが、なぜか俺はちょっと嫌で、でも、これがそのために買ったものであることは間違いなかったから、はい、と頷いた。
「なんか、祝いたくなかったんスけど、さっきコンビニのレジのとこにあったから」
「はぁ?」
 あんまり怒ってない声で先輩が言った。
「んだよ、祝いたくねぇって。こんなやさしー先輩を」
「だって、なんか」
 先輩にわざわざ菓子とか用意すんの、きゃーきゃー言ってる女子みたいで、嫌だから。
 思ったことをそのまま言ってみたら、丸井先輩はおかしそうに笑ったけど、俺はといえば、昨日なぜかメールを送りたくなかった理由も、たぶん似たようなわけだったのがやっとわかった気がして、自分で自分の言うことにひとりで納得していた。
「なーに言ってんだよ。フツーに友達のほうが食いもんくれるっつの」
 チョコレートの包装紙を解きながら先輩はそう言って、茶色い中身を口のなかに放り込む。ゴミになった包装紙を丸くまとめて、それを俺に差し出してきたけど、受け取るわけがない。そんなやりとりに、丸井先輩も、俺もちょっと笑ったけど、俺はなにか煮えきらないみたいな、もやもやしたような、そんな気持ちをどこかに抱えたままだった。
「やっぱこれうめぇわ。ありがとな」
 先輩はそう言って、ゴミを自分のブレザーのポケットに入れて、もう片方のポケットに、残りふたつのチョコをしまい込んだ。
「いーっスよ」
 太陽はもう沈みきっていて、こういう暗いところでは、先輩の髪は赤色というより、赤茶色みたいな色合いに見えた。オレンジ色の街灯はすぐそこにあるけど、眩しかった夕日に比べたら、あんまり強くない光だった。
「……丸井先輩」
 俺がそうやって、改めて名前を呼んだことに違和感を持ったのか、持っていないのか、先輩は何も言わずに、まっすぐに俺を見た。
 ああ、そうだ。
 丸井先輩は最初から、こうやって俺を見た。
 急かすでも、責めるでも、慰めるでもないような視線。
 先輩がこうやって俺を見るとき、俺は大抵、頭に血がのぼってたり、いやにきまり悪かったり、そういう風に、先輩から目線を逸らしたいときだったような気がするけど、今は違った。
 「あ?」とか、「はぁ?」とか、丸井先輩の唇がそういう形に小さく開くのを、近づきすぎて視界があんまり機能しなくなる前の、ぎりぎりのところで見た。
 とっさに浮かんだ景色があった。
 学校の、三階の窓から見た、真下の地面の大きな花壇だ。ここから飛び降りたらどうなるだろうって、漠然と考えたことがある。自殺願望なんかじゃなく、行動にうつす気もまるでなく。
 たぶん、三階の窓から飛び降りるくらい、簡単で、一瞬だった。頭から落っこちて、音もなく地面に触れた。そんな心地がした。他人事みたいなキスだった。
 
 俺たちの顔と顔のあいだに、いつも通りの距離が戻る。再び見えた丸井先輩の表情は、いつもよりも少しだけ目が見開かれたくらいで、俺がいまこの人にしたことを考えたら、たぶん不釣り合いなものだった。
 だからなのかはわからないけど、普段なら絶対にありえないようなことをしたのに、なぜだか、あんまりおかしなことをしてしまった気にはならなかった。
 丸井先輩が、小さく開きっぱなしだった口を、喋るためにひらき直すのがわかるくらい、俺はその顔を見つめていた。
「……何してんの、お前」
「好きです」
 やっぱりあんまり変わらない先輩の表情を見ているまま、俺はわざわざ、
「丸井先輩が」
 とまで付け足した。
 溜まってた感情を激しくぶつけるみたいに、言葉が出てきたわけじゃなかった。
 たったいま思ったこと、っていうか、なんとなくずっと思ってることを、そのまま言ってるだけだった。当たり前のことを口に出しただけだった。試合前の勝利宣言なんかも、俺は本当のことしか言ってないけど、そういうのよりももっと日常的で、もっと普通で、自然なものだった。
 誰にも言わないどころか、ひとりでも数えるほどしか反芻していない気持ちだったのに、今はなぜか、それを口に出さないほうが不自然だって、そんなことを本気で思った。
「……告白」
 俺に投げかけた疑問形なのか、ただつぶやいただけなのか、曖昧な発音で先輩が言った。
 俺の言ったことは確かに、たぶんそういうことだったけど、そんな風に言葉を宛てられてどきりとした。
 丸井先輩は態度とか、表情とか、持ってる雰囲気を変えないまま、何か考えるみたいに下のほうに目を向けて、もう一度俺と視線を合わせる。
「赤也は俺と付き合いてぇの?」
 その言葉の持つ現実的な響きに、比喩じゃなく胸のあたりがどくんと動いた。今までなかなか形がうまく掴めなくて、どこか持て余していたような俺の気持ちに、はっきりとした輪郭がついたような気がした。それは突然のことで、俺はそのことにひどく戸惑った。
「……そんなの、考えたことねぇ」
 そう言った俺の声は、とっさにした言い訳みたいにも聞こえたけど、その言葉は本当だった。
「だって、俺と丸井先輩が、とか。ありえねーっしょ」
 そういう風に続けたことも嘘じゃなかった。でも、さっきまでみたいに、持ってる気持ちが胸のあたりから口元まで運ばれて、そのまま言葉になるような、そういう感覚はいつの間にかもうどこにもなかったし、いま俺の口元にあるものは、何かをごまかすような形だけの笑みだった。
 少し間があいて、丸井先輩は斜め下あたりを見たまま、「そーか」と相槌を打った。
 少し俯いた先輩の前髪が垂れ下がるのを見て、不意に、さっき電車のなかで、ばれたらまずい、と思ったときのことを瞬間的に思い出した。というより、それに似た感覚が再び湧き起こったのだ。いまさら。俺は、目の前にいるこの人から急いで距離を取りたくなるような感覚も、さっき面と向かって好きだと言えたときの感覚も、どちらも持ち合わせているような妙な心地になって、どうしようもなかった。
 先輩が、シューズのつま先を地面に押し付けた音が、やたらと鮮明に聞こえた。
 俺はだんだんと、どうしてもこの気持ちから逃げ出したくなった。これまで悔しかったこととか、気に入らなかったことなんかはいくらでもあったけど、そのどれにも当てはまらないような心地の悪さだった。焦りとか、後悔に似た何かとか、それだけじゃない、喉の奥がぎゅっと締まるような、あのいつものからだの感覚だった。死ぬ気で努力して叶えたい、と思わされるような何かがあるわけじゃないのに、この心地の悪さは興味がないからと切り捨てることもできない厄介なもので、俺にしつこく、重たく付き纏った。
「……だから、忘れてください」
 だから、なんて言葉は、取ってつけたものだった。先輩に訊かれて、付き合いたいなんて思っていない、と嘘じゃなく言えたから、都合がよかったから、そうやって言った。
 でも、俺はそう言ったら、この心地の悪さから抜け出せるような気がしていたのに、そんなことはなかった。寧ろ、胸の内側あたりに立ち込める重たい空気は増す一方だった。丸井先輩という、こんなに身近な人と向き合って立つ、それだけのありふれた状況が、違和感に溢れているままだった。
 ずっと足元あたりに目を向けていた先輩が、顔を上げた。茶色い目がまっすぐ俺を見た。
「お前はそれでいいのかよ」
 先輩が言った。
 頭にかっと血がのぼるのがわかった。それは怒りにも似た感情だった。
 顎のあたりに熱いものが伝う感触がした。それで、さっき、自然と言葉が出てきたときみたいに、なぜだか勝手に涙が溢れてきているのがわかった。涙が、最初に流れたものと同じ筋をつたって、顎まで流れ落ちていった。
 自分が泣いていることに驚く余裕もないくらい、俺は何かに精一杯で、涙を拭うこともできなかった。ただただ立ち尽くしたまま、それでも先輩のことを見ていた。
 先輩はへんな顔をしてた。
 キスをしても、好きだと言っても、そんなに表情を変えなかった丸井先輩が、驚いたような、戸惑ったような、何か考え込んでいるような、なんにも考えていないような、そんな顔をしてた。
「……何も良くねぇ。アンタのことなんか」
 棒立ちのまま絞り出した声は、つくった台詞みたいなさっきまでの言葉より、ずっと俺のものだった。
 先輩は何も言わなかった。
 
 ◇
 
「切原、テニス部の先輩来てるけど」
 数日後、昼休みが始まったばかりの時間帯だった。周りの生徒が何やらざわついたかと思えば、すぐさまクラスメイトにそう声をかけられた。高校生が中学の校舎を訪ねることなんてめったにないから、違う色の制服を着た、赤い髪の丸井先輩は、俺のクラスの入り口のところで思いっきり目立っていた。これだけ注目を浴びているのに、先輩はやたらと堂々としていて、目が合っているのに、自分の机から動かずにいる俺を急かすように、柄悪く顎を上げた。
 話がある、と先輩は言った。
 どこかに移動するつもりらしく、歩き出したその人の後ろをついていく廊下の途中で、俺は立ち止まった。つかつか先を歩いてたくせに、先輩はそれに気づいて、こっちを振り返った。
 俺が何も言わないから、先輩も黙って俺を見てた。そして、廊下の真ん中で、俺は「こないだの話なら、マジでもういいっスよ」、なんて、この廊下にありふれた、普通の会話みたいなことを言った。
 先輩はまた少し黙っていた。その後、「そうかよ」と、短い返事があった。
 
 それからの丸井先輩は、俺の言ったことに従ってくれているのか、合同練習や、たまたま学食なんかで会ったときも、意外なくらいに今まで通りだった。こんなに器用な人だったのか、と少し驚いたくらいだった。
 あっという間に予選が始まって、関東大会が始まって、全国大会が終わるまでの時間はものすごく長いようで、それでもやっぱりあっという間だった。
 そんな日々のなかで、あの春の日のことを思い出すのはたまにのことだった。大会が始まってからは、これまで以上にテニスのことで頭がいっぱいだったし、たまに会う丸井先輩がそんな態度だったから、俺のほうこそ、あの日のことが半分くらいは夢だったみたいに思えた。
 
 大会のあと少しして、丸井先輩とジャッカル先輩は、俺と玉川を誘ってファミレスに飯に連れていってくれた。大会のこととか、来年からの高校でのテニスの話をしたり、引き継ぎの話なんかも少し聞いてもらった。ここ数ヶ月はオフの日なんてあってないようなものだったから、丸井先輩とこんなふうに時間を取って話すのは久しぶりだったけど、俺はやっぱりその日も、ずっとテニスのことを考えていた。丸井先輩だって、絶対にそうだったと思う。根拠はないけど、心から思いきり絶対だと言えた。理由がなくてもそう言えるくらい、俺と先輩は長い時間、同じ場所でテニスをしていた。
 
 ◇
 
 九月も終わりかけの日曜日、前の週にあった海原祭の打ち上げで、学校の近くのショッピングモールにクラスで行った。モール内のバイキングで昼を食べて、打ち上げ自体はその場で解散だったけど、その後も仲の良いグループでそのまま遊ぶ流れになった。毎年、海原祭の打ち上げといえば自然とそういう感じだった。俺たちはとりあえずゲーセンに入って、ひとりで両替機に向かったとき、少し先のところに丸井先輩が居るのが見えた。あの人の髪は目立つから、こういう風にごちゃごちゃした景色のなかでも、目につくことが多かった。先輩とその友人らしき人達は、プリクラ機のすぐ前で何やら話していて、たぶん落書きコーナーの中にいる女子達を待ってるみたいだった。今日、海原祭の打ち上げをしているクラスは多いらしいから、先輩のクラスもこのモールのどこかで打ち上げだったのかもしれない。
 両替機に入れた千円札が百円玉に変わって、じゃらじゃらと音を立てながら取り出し口に落ちてきている前で、ぼうっと先輩を見てた。ちょうど一年前くらいに、丸井先輩とふたりでこのモールに来たことを思い出していた。俺の誕生日に、今度ラーメンを奢ってやるとかなんとか、先輩がやっぱりそういうメールをくれて、俺がここに誘ったんだ。俺はほんの数秒のあいだ、そうやって両替機の前に突っ立っていた。そしたら丸井先輩が不意にこっちを見たから、突然目が合って少し驚いた。先輩のほうも、ちょっと驚いた、という顔をして、その表情のまま、たぶん挨拶代わりのピースサインを俺に向けた。俺も頭だけで小さく会釈をする。十枚の百円玉を両替機から財布に取り込んで、もう一度そっちを見てみたら、先輩はまた同級生達と話し込んでいた。
 
 ゲーセンで遊んだり、買いもしない雑貨屋やスニーカー売り場を冷やかしたり、そうやってモール内でひと通り遊び終えて、そろそろ解散することになった。友人達とモールの駐輪場へと向かっていたら、その入り口のところに、赤い髪の人がひとりでいるのが見えた。
 また会った、と思って、だからまた少し驚いた。その人は俯きがちに携帯をいじっていて、一緒にいた友人だか、誰かを待ってるみたいな雰囲気だった。近づいてくる俺たちの気配に気づいたのか、丸井先輩はふと顔を上げて、俺を見つけると携帯を閉じた。そしてこっちに向かってくる。
「よう」
「うっす」
「なあ、悪いけどこいつ借りてもええ?」
 俺を親指でさしながら、先輩は唐突に同級生達にそう言った。俺はそれに驚きつつも、丸井先輩は制服を着ていないから、この人はテニス部の先輩だと友人達に説明しなきゃいけない、なんてことを思っていたけど、俺が口を開く前に、どうせ帰るところだからと同級生達は快諾していた。先輩が俺のクラスに来たのなんか、あの春に一回きりのことだったのに、新しいクラスメイトである友人達は丸井先輩のことを知ってるみたいだった。先に帰っていくクラスメイト達に、先輩は「ごめんなー」と、俺の横でひらひらと手を振っていた。
「打ち上げだった?」
「はい」
「俺も」
「……待ってたんスか? 俺のこと」
「うん。帰りに見たらさ、赤也のチャリがあんの見えたから」
 先輩は当たり前みたいな口ぶりでそう言って、でもまあ、あと五分で来なかったら帰ろうと思ってた、と続けた。
「……なんで?」
 俺のチャリがあったからって、あのときゲーセンで楽しそうに一緒にいた人達と、きっと先に別れて、わざわざ俺を待ってる理由にはならないと思った。
 でも、なんとなくわかった。思い返してみれば、もしかしたら丸井先輩は、たぶんこんな風にわざわざ俺に会いに来たことが、きっといくつかあったのだ。ただ、そういうとき、俺は大抵テニスのことを考え込んでいて、先輩がどうしてそこにいるのか気にする余裕なんてなかったから、不思議に思ったことはなかった。なぜか今になって、それがわかった。
「だって、あんま会えねぇし」
 先輩は口の端を上げて笑う。今までと変わらないことをしている証拠みたいな、いつも通りの表情だった。
「一緒に帰ろうぜ」
 
 ◇
 
 俺は自転車を押して、先輩はその横を歩く。このまま最寄り駅までの短い距離を行くのが、このショッピングモールからの、俺と丸井先輩の「一緒に帰る」方法だった。
 先輩とこうしてちゃんと会うのは、四人で行ったファミレス以来だから一ヶ月ぶりで、こんな風に外をふたりで歩くのは、あの日以来のことだった。
 数日前の俺の誕生日、今年も先輩はメールをくれた。二年連続のことだから、この人はもしかしたら、案外まめな人なのかもしれなかった。
 俺はそれに返事をしなかった。
 俺たちの歩いている先、向かい側で、夕日がもうすぐ沈みそうだった。暗い青色の空に赤が強く混ざっていて、その光が眩しかったけど、口に出すほどじゃなかった。
 眩しい、とも、打ち上げどこでしたんスか、とかも、なぜか言えなかった。ふたりで道を歩くだけで、俺はいとも簡単に、いろんなことをゆっくりと思い出した。隣にいる先輩は、パーカーのポケットに手を突っ込んで、ガムをくちゃくちゃ噛んでいた。俺があんまり喋らないせいで生まれたぬるい沈黙は、あからさまなものじゃなかったけど、前に四人で会ったときや、今までの俺たちにはあんまりなかった類のものだった。
「お前さ、メール無視しただろ」
 先輩がそう切り出した。こっちを見ながら言ってるのがわかったけど、俺は進行方向を見やるふりをして、目を逸らしていた。
「奢るっつってんだから、喜んどきゃいいだろい」
 こんど会ったら触れられるだろうと思っていた話題だった。先輩はメールで、誕プレ代わりに何か奢ってやる、みたいなことを言ってくれていた。去年と大体おんなじに。
「すんません」
「まあ、別にいいけど」
 丸井先輩という人は、誰かの誕生日というものを、俺の感覚よりもいくらか特別に思っていて、普段は人に奢らせてばかりいるくせに、その日だけは意外にも太っ腹なおもてなしをしてくれるのを知っていた。去年がそうだったから。
 でも、俺はあの春の日、この人に好きだと言ったのだ。
 告白とか、キスとか、あの日のことがあんまりにも俺たちらしくなくて、夢だったみたいに思えても、やっぱりあれは現実だった。
 あの日のことを、先輩が何とも思っていないわけがなかった。何も考えずに、同じテニス部の後輩と、こんな風に普通に喋っているわけがなかった。それを態度に出さないような、この人にそんなことができるのを俺は知らなかった。それが嫌だった。そうだ。嫌だったのだ。忘れてほしいと二度も言っておいて、自分勝手なのは百も承知で、でも、知らないあいだに少しずつ積もっていた感情だった。俺は今日、先輩とこんな風に、ふたりで並んで歩くまで、そんなことにも気づけなかった。
「つーか、ずっと言いたかったんだけどさ」
 新しい話を切り出すみたいに、先輩が言った。
「赤也が俺のこと好きっての、あれ、忘れねぇから」
 俺は、あの春の日と同じに、心臓が強く動くのがわかった。足を止めたりなんかはしなかったけど、足取りがこわばる感覚がした。
「お前が必死にさ、もういいっつーから、忘れてやろうかとも思ったけど、やめた」
 先輩の話を聞きながら、前に向けた視線が、舗装された道の上の石ころなんかを、意味もなく捉えていた。秋めいた風が吹きつけた。そばの海から届くそれを、俺はさっきまで肌寒いと思っていたけれど、もう、なんとも思えなかった。
「……なんで」
 先輩がなにか答える前に、続けた。
「ずっと忘れた態度取ってくれてたじゃないスか。アンタにとっても、その方が都合いいからじゃねぇのかよ」
 考える前に言葉が出てきた。自分がそういう風に思っていたことを、声に出して初めて知った。
 丸井先輩が立ち止まって、俺の左腕を掴んだ。向き直ったら、その人はまっすぐな目つきで俺を見ていた。俺だって、目を逸らしたりはしない。
「忘れた態度ってなんだよ」
 強い口調で先輩が言った。
「お前が三年で、大会頑張ってて、たまに会ったときに気まずくしてたら、忘れてねぇ態度だったのかよ」
 俺の腕を握る力は強かった。
 黙ってる俺を、先輩は一度、目を細めて見やった。
 手のひらが俺の腕から離れた。俺は動けないままだった。
「……なんで忘れてほしいんだよ」
 先輩がつぶやくみたいに言った。怒ってるようにも聞こえる声音だった。
「俺も好きとか、付き合おうって言われなかったからかよ」
 俺は、訊かれたそれが自分でもよくわからなくて、でも、図星なような気もして、やっぱり押し黙ることしかできなかった。
「お前、テニスでも同じことすんの。勝ちてぇ相手がいて、試合して負けたら、さっき勝ちたいっつったのは嘘だ、とか言うのかよ」
「……テニスと、この話は違ぇ」
「違わねぇよ」
 丸井先輩は揺るぎない口調で言った。
「赤也は赤也だろ」
 俺を少しだけ見上げる目線の、夕日を受ける左目が、薄い茶色に照らされてるみたいだった。初めて見るような、いつも見ていたような、真剣な目だった。
「俺はそういう、お前のテニスが……」
 先輩はなぜか言葉を切らして、でも、俺から目を逸らすことはしなかった。
 俺は不意に、おかしなことに、懐かしいような気持ちになった。その場しのぎでいいから何かを告げて、ここから立ち去りたいような、あの春の続きみたいな、もやもやしたマイナスの感情がだんだんと消えていった。
 あの日、丸井先輩のことが好きだと口に出した後、自分自身の心のなかの曖昧にしているものに、はっきりとした色がつくようで、俺はそんなことに焦って、戸惑って、怯んだんだ。
 そのせいで、よく知っているもののことすら見えなくなっていた。
 曖昧な形のままで、それでも確かに持っていた思いを、先輩に伝えたのはまぎれもない俺自身だった。だからそれでよかった。そのままでよかった。俺がどんなことを言っても、この人が、ちゃんとその話を聞いてくれることを、俺は知っていた。それは俺が立海大のテニス部で、いろんなもののついでにもらった何かだと、前からわかっていたはずだった。
「……丸井先輩」
「うん」
「好きです」
 先輩はもう一度、うん、と小さく頷いた。俺も丸井先輩も、少しのあいだ何も言わなくて、また沈黙が生まれた後、「お前が泣いてんのなんて、久しぶりに見たからな」、そう言って、先輩は少しだけ笑った。いつもの余裕綽々な笑みでも、心底おかしそうな大笑いでも、あの、何度か横から見た、やけにやさしい微笑みでもなかった。ちょっとだけ眉根を下げた、困ったようにも見える、そういう笑いかただった。
 視界の右側から入ってくる、夕日の眩しさがうっとうしくて、目を細める。視線を下げた先の、地面の色にも光があたっていた。
「……それと、これはさ、赤也がたーくさん時間くれたおかげでわかったことなんだけど」
 視線を上げると、丸井先輩はもういつもの、余裕のある笑みを浮かべていた。
「お前にああ言われて、うれしかった。だから忘れねぇって、そんだけだから」
 俺は、呆気に取られたような気持ちになった。否定されたりとか、悪く思われたりしないことはもうわかっていたけれど、うれしい、なんていう、そんな簡単な言葉をもらえるとは思っていなかった。
「俺のこと好きだって」
 あの赤也が。ふっと笑いながらそう言った丸井先輩に、思わず「バカにしてんスか」と反論すると、「しねえって」、と、また笑った。
「お前、俺に泣かされたことなかったのに」
 そう言う先輩の、細められた両目とか、少し緩んだ口元が、ちゃんとうれしそうに見えた。泣かされたっつー言い方は、とか、そういう風に何か言い返したかったけど、なんとなく言葉が出なかった。あの春の日、もやもやと重たい空気ばかり募っていた胸の内側が、だんだんと熱を持つような心地がした。
「なぁ赤也」
「……はい」
「俺ってモテるんだけど」
「はぁ?」
「告られて振って、泣かせちまったりとか、たまにあんだよ」
 突然そんな自慢話を始められて、俺は心底わけがわからなかった。今から同じことをするから、お前はもう泣かないように気をつけてくれ、みたいな話をしているのかとも一瞬考えたけれど、さすがにいくら丸井先輩がオーボーで、人づかいが荒いからって、そこまで鬼みたいな人ではないはずだ。
「そやって泣いてる子には、告られてうれしいっつーよりも、ごめんなぁって思ってたから、お前が泣いてんの見てからモヤモヤしててさ」
 先輩の言ってることに思考が追いつかないまま、俺はとりあえずの相槌を打った。
「赤也がああやって泣いてたり、他にももし色々あっても、まあカワイソーなんだけど、それよりもうれしかったんだよ」
 口元に笑みをのせたまま、丸井先輩が言う。
「これってなんでだと思う?」
 一緒に考えてほしい、みたいな口ぶりではなかった。答えはすでにわかっていて問題を出すような、そんな口調だった。
「なんでって……」
「ずっと考えてたんだけど。さっき、やっぱそうだって思った」
 先輩の問いかけの答えがなんなのか、何が「そう」なのか、俺だけ辿り着けないらしいまま固まっていたら、先輩が、俺の背中に腕を回して、きつく引き寄せる仕草をした。俺は、わけのわからない自慢話をされていたときよりも、もっと状況が理解できなくて、ろくな言葉が出てこなかった。
「なに、してんスか?」
「実験」
 返ってきた答えは、この仕草の理由にも言い訳にもならないような、やっぱりわけのわからないものだった。
 それでも俺は、突き放したり、拒否することをしなかった。本当にすぐそこに体温があって、喉の奥がぎゅっと締まった。俺が今まで何度もこの感覚をからだの内に飼っていたことなんて、丸井先輩は知らないし、こうやってすぐ近くにいても、そんな感覚まで伝わらないのはわかっているのに、並んで歩くときのいつもの横顔とか、さっき俺を見てたときの表情で、俺のこの痛みをどうやってか見つけて、笑われるような気がした。
 そんなことを思っていたら、丸井先輩が本当に笑った。はは、と、乾いたような笑い声が、頭のすぐ左のほうから聞こえた。
「……実験成功、つって」
 先輩は、俺の背中に回していた腕を離した。再び見えるようになったその顔は、やっぱり少し笑っていた。夕日はもうほとんど沈んでいて、俺を見やる先輩の目の色が、いつの間にか、さっきよりも濃い色に見えた。
「さっきの、なんでかわかった?」
 問いかけられて、首を横に振る。
 先輩は、すっきりした笑顔で言った。
「やっぱ俺、赤也のこと好きだわ」
 暗くなった街並みのなかで、空といっしょに色を落とした赤い髪のその人は、ちゃんと、俺が今まで、かつては毎日のように顔を合わせてきた丸井先輩だった。
 俺は、そんなことを言う先輩のことを知らなかったし、想像だって一度もしなかった。それでも、なぜだか俺には、そう言った先輩がいま目の前にいるのが、冗談みたいなことのはずなのに、ありふれた普通のように感じた。
 お前のテニスが好きだ。いつか、この人にそう言われたことがあった。俺はべつに喜んだりなんかはしなかったけど、あれからしばらく経った今でも、そのときの景色を覚えていた。俺はそういう風に、この人のことが好きだった。
「もっかいしとくか?」
 丸井先輩は、半分冗談みたいに、両腕を広げる仕草をした。秋の潮風がまた吹いて、それが合図みたいに、先輩のことも、自分のことも、この場所にある大事な気持ちは、何もかもわかったような気分になった。俺にも、目の前にいるこの人にも、この体温の他に、もっとたくさんの持ち物があることはわかっているけど、ただ、そんな気分だった。
「……先輩」
「ん」
「やっぱ、なんか奢ってください、誕プレ」
「だーめ、お前無視しただろい。もう時間切れだっつの」
 お互いの背中に腕を回しながら、そんな話をしているのがおかしくて、笑ってしまった。
 なんだかんだで、去年みたいにラーメンやら映画やらを奢ってくれるかもしれないと思ったのは、もともとこの人に持っていた印象なのか、俺がいま、もしかしたら浮かれてしまっているのか、わからなかった。どっちでもよかった。
 誰かを抱きしめたら、その人の顔が見えないってことを、その日、俺は初めて知った。先輩の肩越しに見える、大きな植木からのびる影と、道路の色合いが暗いものになっていて、夕日が沈みきったのがわかった。
 あの春の日、衝動のままにしたキスのことなんてもうほとんど覚えていないけど、毎日つかう両腕で、ちゃんと引き寄せた背中の感触とか、この体温は、しばらく忘れないような気がした。