ブルー・マイナー
 
 
 真上から見たのは初めてだ。
 机に突っ伏された銀色は、目線で辿る限り、つむじまで抜かりなくその色を貫いている。
 こんな色味になるまでに色素を抜き切ったにしては、傷みを感じさせない髪質を見下ろしていたのも束の間、俺にはそんなことはどうだってよかった。
「おい。寝てんの?」
 上靴の裏で机の脚を軽く揺らした。銀色の頭は、重ねた両腕の上でもぞりと小さく身動きをしながら、「寝とる」、と寝言を言ったらしい。声は少し掠れていた。
「さっさと準備しねーとギリだぜ」
「…………」
「お前のこと、連れて来いって頼まれてんだけど。真田に」
 窓際から二列目、四月を迎えたばかりのささやかな日差しはそんなに心地が好いのか。
 放課後、蛍光灯の消えた薄暗い教室で、カーテンの隙間から入り込む日光にあたって白く姿を現した空気中の埃は、無言に徹するクラスメイトの味方をするように、彼のそばを纏い、光る。
「体調悪ぃとか?」
 数秒間の沈黙をもう一度こっちが崩してみせれば、同じ沈黙はすぐに戻ってきた。無視されている、というより、さっき一度喋ってみせたくせに、今更やはり狸寝入りを決め込むつもりなのかと指摘したくなったとき、さっきよりもはっきりとした口調で「そういうわけじゃない」と仁王が言った。
 寝言じゃあなさそうな返答に、今度は俺が反応をよこすよりも先、頑なに身を預けていた机と椅子から、そいつはやっと、あるいは案外あっさりと、立ち上がった。
 
 ◇
 
 教室の後方の出口までの数歩ぶんと、廊下と階段と海林館までの道のりで、仁王は、俺の普段よく話すような友人達と比べたとき、無口だった。
 彼がさっきまで本当に眠っていたのかどうかもわからないが、どちらだとしても、例えば寝起きが悪いのか、それとも普段からいつもこのくらいの口数だったか、同じ部活に二年間所属しただけでは、それもわからなかった。
 ぽつりぽつりと交わした短い会話のなかで、仁王は「着替えるんは面倒臭い」と言った。
 
 クラス数の多いうちの学校で、二年当時のクラスでつるんでいたメンツや、部活でよく話す奴らだったり、ダブルスパートナーなんかと同じクラスになれることはもともとあまり期待していなかった。
 その心構えは正解だったようで、一週間前の始業式の後に出向いた新しいクラスに見知った顔は多くなかった。頭のなかで顔と名前が一致したのは、一、二年の頃に同じクラスだった奴、合同体育で去年仲良くなった奴、よく差し入れをくれる女の子二人組の片割れ、そして、特段仲の良いわけではない、部活のチームメイト。俺のふたつ前の空の席がそいつのものだと知ったのは、最初のホームルームで配られた名簿を見たときだった。
 そーか、あいつ、雅治か。
 そんなことを思ったのを覚えている。
 莫大な生徒数のわりに、うちのテニス部はそんなに部員が多くない。なんせ思いっきり厳しいから、入った奴の大半は辞めていく。だから部員の顔と名前は全員分かる。けれどそれ以上に、あいつは目立っていた。
 口数についてはどうだかわからないが、気怠げな猫背は寝起きとは関係ない。たまの練習の合間と、重なったコート整備の割り振りと、部室での着替えのタイミングで、俺が知っているのはそれくらいだった。
 
 ◇
 
 まだ蛍光灯はついたまま、ホームルームの終わったばかりの教室で、クラスメイト達の隙間から窓際の方を見た。
 銀色の頭は机の上で、昨日と同じように彼の両腕に埋まっていた。
 なんとなく少し迷ったが、声はかけないことにした。机に立てかけたラケットバッグを背負う。クラスメイト達と二言三言、なにげない挨拶を交わして、ひとりで教室を出た。
 べつにあいつは毎日練習をサボっているわけじゃないし、寧ろ大体は出ている。今日だって、放っといても昨日のようにのっそりと起き上がり、コートに向かうかもしれない。何より今日はあいつのことを誰に頼まれたわけでもない。真田に仁王のことを訊かれたら、見ていないとしらを切ればいい。
 練習に出る気のない奴を、わざわざ引っ張っていく理由もない。べつに、突き放すような意味合いではなかった。
 だって、何を知らなくても、わかっていることはある。
「丸井」
 唐突に背中から声を投げ掛けられた。反射的に振り返ると、ついさっき放っておいた、寝こけているように見えたクラスメイトが数歩ぶん後ろにいた。
 真田に嘘は吐かずに済みそうだった。
「何?」
「昨日起こしてくれたき。これ、よう食っとるじゃろ」
 そう言って差し出されたのは板ガムだった。それも、仁王の言う通り、見慣れた俺の好きなメーカーのものだ。
 たまたま一緒に居合わせた時以外で、わざわざこうやって話しかけられるのはこれが初めてだと思う。案外、律儀な奴だったんだ。
 差し出されたそれと仁王の顔を交互に見ながら「くれんの?」と思わず少し弾んだ声が出た。「一枚な」と条件を加えた仁王の声は、たぶん大体いつも通りに、低い。
「サンキュ」
 ご丁寧に一枚ぶんだけが、包装紙に包まれた束のなかからはみ出ていた。
 昨日のお礼ということならば一枚と言わず全部くれたって罪はない、なんてことも思ったが、どうせただ一言声をかけただけのことに対するお礼なんだ。一枚もらえるだけでラッキーだろ。頭の端のぼんやりした部分でそう考えながら、その一枚を束から引き抜いた時、ガムに添えた親指に衝撃が加えられた。
「うおっ」
 痛みというほどではないが、ただガムを引っ張っただけの指に走ったそれに驚いて視線をやり、目を見張る。俺が引き抜いたものは毎日食っているチューインガムなんかじゃなく、駄菓子屋なんかでよく売っているような悪戯グッズの、いわゆるパッチンガムだった。さっき見た包装紙は間違いなく、俺のポケットに入っているものと同じだったのに。
「引っかかったな」
 これがこいつの弾んだ声なのか。
 普段と変わり映えしない声色が降りかかり、手の込んだ悪戯グッズからその仕掛人に目線を上げると、読みづらいような、それでもしたり顔で仁王が微笑む。
「おっまえな。これのどーこが、お礼だよ!」
「礼なんて言うとらんぜよ」
「……」
「おまんにもバレん見た目で作れとったんなら、なかなか上出来じゃの」
 俺の指先からバネと、それのくっついた板ガムのような形のしたものを回収しながら、そう言う仁王は満足気だった。
 その日から仁王は、たまに板ガムをそうやって差し出してきた。それはいつだって見事に俺の見慣れたチューインガムに成りすましており、偽物であるパッチンガムにはするはずもない味の記載やそのイラスト、メーカーのロゴは包装紙の上でときどき変わっていて、そして、稀に本物が混ざっていた。
 
 ◇
 
 まだクーラーのつかない初夏の生ぬるい空気と、やっと放課後を迎えたクラスメイト達の雑談や、帰りの支度の些細な音で溢れる教室を、廊下側、真ん中の席から、後方の出口まですり抜けて出ていく後ろ姿を見かけた。
 その日、部室にもコートにも、仁王は来なかった。
 
 ◇
 
「ねえ、今日って仁王くん休みなの?」
 髪を低い位置でふたつに縛った女子が俺に訊いた。
 席の近い友人達と弁当箱を広げ合い、人より大きい自分のそれからピーマンの肉詰めを箸で摘んだときだった。クラスが変わって三ヶ月。仁王についての質問を受けることが、少し前から増えていた。
「知らね。朝練は居なかった」
「授業も全部いないねぇ……」
「ふつーに不良だろい、あいつ」
「仁王って、テニス部の練習は真面目に出てんの?」
 やっとこさ口に運んだピーマンの肉詰めを咀嚼しながら、新しい質問をよこしてきたバスケ部の友人を見やる。その隣に座る同じくバスケ部の別の友人が、「朝練居なかったっつったろ」と俺の代わりに答えた。
「へえ。じゃあ、フツーより練習してねぇのにレギュラーなのかよ」
「すごーい……。やっぱりすっごく才能あるんだ!」
 弾んだような、惚けたような声で話す女子生徒に、「はぁ? 才能なら俺のほうが上だっつーの」と冗談めかして言ってみれば、彼女も、他の友人達もおかしそうに笑った。
 
 その日、六時間目の音楽まで仁王は授業に顔を出さないきりだったが、部室でユニフォームに着替えている時、そいつは素知らぬ顔でドアを開けた。
 音楽の授業は、いきなり抜き打ちでリコーダーのテストを行うことを伝えられ、授業の前半は練習時間、後半は一人ずつ音楽室の前に立っての発表であったこと、今回の授業で発表し得なかった半数の生徒は次回の授業で発表させられることを伝えると、仁王は、「これじゃき、斎藤はありえん」と、眉をひそめて音楽教師の悪口を言った。
 部活が始まると、仁王が審判台の椅子の小さな影が頭にかかるよう地面に座り込んでいることを赤也に教えられ、その些細な抵抗に思わず笑った。ここ最近めっきり強くなった日差しからそうしてでも逃げたい気持ちはわからないでもないが、小さく縮こまるようにも見えるあの背中。それを悪戯っぽい態度で俺に見るよう促してきた赤也の気持ちのほうが、俺にはずっと共感できた。
 
 ◇
 
 それを言われた日は全国大会の緒戦数日前だった。
 緒戦にオーダーされた仁王とのダブルスは、自分の攻撃に徹することのできるジャッカルとのダブルスとは全く別のところで、練習のうちからなかなかやりやすいものだった。仁王のプレイスタイルはその人柄とは裏腹に基本的にはあまり癖がないから、パートナーとして扱いやすく、また扱われやすかった。
 ダブルスの校内練習試合後、水道水で濡らしたタオルを首にかけながら、 
「おまんはやっぱり、ようわからん奴よの」
 仁王がそんなことを言った。
 隣で飲んでいた蛇口の水を止めつつ、何を理由にそう思ったのか、純粋に小さな驚きと疑問を持ちながら、「はぁ?」と真横に視線をやって、そのあと「それはお前だろい」、と、思ったままを返した。
 対する返答代わりと言わんばかりに、仁王は無言でポケットの中から板ガムを差し出す。ほら、こういうところも、よくわかんねーのはお前だろ。それを口に出すことはしなかった。仁王のさっき発した言葉は彼の得意の戯言で、それは俺がムキになって反論するべきものでもなく、世間の意見はきっと俺と同じだともわかっていた。
 それに、なんとなく、特に悪い意味で言われたという気もあんまりしなかった。
「……くれんの」
「おう」
 半信半疑というより、ほとんど駄目元のような気持ちでガムらしきものを引っ張ると、やっぱり親指に小さな衝撃を食らった。
 それは本当に返答代わりだったらしく、仁王は手洗い場からコートにひとり踵を返した。
 やっぱり、よくわからない奴。
 そんなものは俺の台詞だった。
 濡らしたタオルを頭に被る猫背がこちらを向いている。あの背中は、しょっちゅう、小さな日陰に拘って休憩時間をやり過ごしていた。
 俺はといえば、じりじりしたこの夏の日差しは、そんなに嫌いじゃない。
 
 幸村くんが戻ってきてからも、仁王は変わらず練習中に、たまにどこかに消えていった。
 一度、ドリンクを教室まで取りに行った休憩終わり、二号館の渡り廊下のそばで壁にもたれかかり、座り込む仁王を見かけた。
 切れ長の目がぎりぎりまで伏せられて、閉じているようにも見えたが、確かに目が合ったから、そうではなかった。
 休憩終わるぜ、と声を掛けると、先行ってええよ、と言われた。
 そいつがしばらくコートに戻る気のないことはその態度からなんとなくわかったが、適当に返事をして、その場を後にした。
 今までも何度だって、どうしてだか、どこか見送るような気持ちで、あのクラスメイトを置いて教室から先に出て行ったし、後ろ姿をわざと見失った。
 練習に出る気のない奴を、わざわざ引っ張っていく理由はない。今でも、突き放すような意味合いではない。
 だって、わかることだ。
 部活の練習はああやってサボるくせに、緻密に考慮された練習が時間をかけて重ねられていることは、プレイを見れば明らかだった。あいつがどれだけ態度で些細な嘘を並べても、あいつのテニスを本当に見るのなら、誰にだってわかることだった。
 ちぐはぐで、よくわからないのは、濡れそぼったタオルに隠してひとりコートに戻っていく、猫背の上の、あの頭のなかだ。
 
 ◇
 
 昼休みなんて、もともと家庭科室での作業にはあまり向いていない時間だったのだ。放課後にそこを使うようになってから、俺はやっとそれを知った。
 すっかり仲の良い家庭科の教師には、焼きあがって粗熱も取れた三種の簡単なパウンドケーキをいくつか分けて、ついでに自分もその場で一切れずつ試食した。満足できる味であることを確認すればラップで包み、持参したケーキ箱に入れて、残りは持ち帰る。揃って甘いもの好きな家族のぶんだった。
 家庭科室を出て、ケーキ箱を片手に人気のない廊下を歩く。ソフト部のランニングの例の声出しはもうとっくに聞こえない時間だが、グラウンドからは色んな声や音の入り混じった、部活全体の、放課後の音が聞こえる。どこの学校も、たぶんそういうものだろう。
 テニスコートはここから遠い。
 何度かこうやって放課後に校舎に残ったが、放課後の教室というものは当たり前だけれどほとんど無人で、だから電気も消されている。残った生徒の雑談に使われているような教室だけは、ちらほらと特別だった。自習している奴も居た。普段踏み入れない教室の黒板の日直欄に書かれた知らない名字を、見るともなく見たりしながら廊下を進んだ。
 自分の教室の蛍光灯のようすは多数派のそれで、部屋のなかが薄暗いのは、ふたつ手前の教室あたりで廊下に面した窓から見えた。
 通学鞄を取りに中に入ると、教卓前の真ん中の列、前から四番目の席の椅子に座って、両腕ごと机に寄りかかり、伏している背中があった。
 締め切られた教室のカーテンは、その向こうでふんだんに溢れる光を、窓際の足元にだけ微かに落としている。
 教室のなかで、それらしい明かりはそこだけだった。
 光のない薄暗い場所で、色を持たない髪の色は簡単に暗がりに染まり、コートの上とは全く別の色をしていた。それでやっと、俺は、自分がその髪の色を、光の下で見慣れていたことを知った。
 廊下側、後ろから二番目の、自分の席に置いてあった鞄を開いてケーキ箱をしまい、ジッパーを閉めた。
 そのまま入ってきた後方の扉から出て行こうとして、少し迷って、やっぱりやめた。
 席と席の間をすり抜けて、クラスメイトの突っ伏す机の横に立つ。上靴の裏を机の脚に掛けようとした時、そいつはゆっくりと顔を上げて、こっちを見た。
「起きてたのかよ」
 俺を見上げる仁王の片耳からはイヤホンが延びていた。その先に繋がる、伏された仁王の半身がさっきまで隠していたらしい、机の上に置かれた青色の音楽プレイヤーの画面が光っていた。
「寝とったよ」
 静かに笑った口元のよこした元チームメイトの返答が、嘘だか本当だか、俺は知らない。