マイ・フェイバリット
 
 
 俺の部屋の、俺のベッドを背もたれに、丸井先輩は床に座り込む。
 その目線の先は、中学の頃から新巻が出るたびに貸してやっている少年漫画の単行本。それを無表情で黙々と読んでいる横顔あたりを、先輩の肩越し、ベッドに寝転がりながら見ている。
 風船ガムが膨らむ。いつも通り器用に、まんまるに。
 思えば俺はもう何年も、毎日のようにこの人と顔を合わせている。そんななか、先輩が飽くことなくしょっちゅう膨らまし続けるそれを、今更ながらぼうっと眺めてみた。なんの意味もなく。
 そんな視線に気づいたのか、紙面に向けられていた両目はこっちを向いて、ついでに、わざわざ漫画は閉じられて、それを持っていた右手は腕ごとベッドに載せられた。
 だから俺も、半分ポーズで片手に持っていた携帯を枕元へと置いてみる。
「なに。欲しいの?」
 笑った口元でそう言って、先輩の右手が寝転んだ俺の腹あたりを摩った。その、見慣れた五本の指の持ち主の、細められた両目にこもる茶色が俺を見ている。俺だけを。
 返事をする代わりに起こした上半身でその手を引き寄せて、いとも簡単に近づいた茶色を一瞬だけ見やる。お互い、何も言わない。示し合わせたようにキスをした。
 
 ◇
 
 聞き慣れた、けたたましい目覚ましの音が響く。たぶん、本来その音が持っているもの以上に耳障りに吠えるそれを、無意識に動く右手で止めた。ずるずると半身を起こしたら、朝に弱い頭がゆっくりと働き出す。
「……うわ」
 やっと、今は朝で、自分がたったいま起床したことを知る。ついさっきまでそこにいたように感じていた他人のからだは、音もなくするりと消え失せて、それが自分の頭のなかの作り物だったことも、ついでに知る。
(夢とか……)
 誰に見られているわけでもないけれど、妙なきまり悪さから抜け出せずに、ぼりぼりと後頭部を掻いた。
 心地が良いか悪いかは別として、結果的に普段よりも冴えてしまった寝覚めのまま、ルーティンに逆らわずベッドを降りる。
 丸井先輩がこの部屋を数回訪れただけで簡単に定まって、さっきまでの夢のなかにまで反映されてしまった、ベッドのすぐ傍、その人の定位置を一瞥した。
 
 ◇
 
 古文の授業は好きじゃない。
 現代文は、漢字の問題以外は、面倒な暗記、予習や復習をせずともそれなりに試験の点が取れるから嫌いじゃないけれど、古文はその真逆だった。変な言葉遣いばっかりで、何を喋っているのか英語と同じくらいにわけがわからないし、白髪の混じった教師の抑揚ない喋り方は余計に眠気を誘う。
 いつも通りに頬杖ひとつで眠りに落ちかけたとき、教師がぺらぺらと連ねるどうでもいい言葉の羅列のなか、ひとつのワードで俺の意識は再び現実に引き戻された。
 
 ◇
 
「夢に誰かが出てきた時って、出てきた人がその人に会いたがってるってことらしいっス」
 帰り道、丸井先輩の、日直の仕事のせいで購買の新商品を買い損ねた話を一方的にすり抜けて、そう切り出した。
 不満げだった先輩の表情は、呆然としているとも、怪訝とも言える表情に変わり、そのまま「は?」と聞き返されたから、言葉を付け加える。
「今朝、アンタが夢に出てきた」
 意図したことが伝わるだろう情報を示し終えても、先輩は表情を大して変えないまま「ああ」と頷いて、その後、寧ろ呆れたような半笑いを浮かべて「あっそ」と粗末な返事をよこした。
「なんスか、その反応」
「いや、つーか何、その話。誰に聞いたんだよ」
「古文の先生。授業で言ってた」
 素直に答えると、先輩は少し息を洩らしていちど笑う。
「それはあれだろ、その時代はそう言われてたっつーやつ。たぶんお前、ちゃんと話聞いてねえよ、」
「俺に会いたかったんじゃねえの?」
 授業をちゃんと聞いていないのは図星だったけれど、朝っぱらから俺の夢に平然と居座ったくせに、涼しい口調でそのことを他人事みたいに話すそぶりが気に食わなくて、俺だって、べつに古文の教師の言うことなんかを完全に信じたわけじゃなかったが、半ば自棄になりながら、続く先輩の言葉を遮るように言った。
「お前が俺に会いたかったんじゃね」
 夢で見たそれと同じ形の、笑った口元が返してきた言葉は、もっと気に食わなかった。
 だから無視を決め込む。目線を、隣を歩く先輩から目の前の進行方向へと戻して、罪のない通学路を小さく睨みつけていると、横から、やっぱりなんでもない口調で、声がかかる。
「赤也。下降りようぜ」
 
 ◇
 
 俺たちは、付き合い始めてから、ふたりで帰路につくことが少しだけ増えて、たまに、丸井先輩がそこから電車に乗るはずの、学校から最寄りの駅を並んで見送った。
 そうして、次の駅までの道のりの途中、少し下ったところにある人気のない高架下で、ときどきキスをした。
 視界の端の先にあるその場所へわざわざ出向くことは、そのこと自体が、お互いの合図のようなものになっていた。
 つい夢で見たことを思い出して、その口元に目線をやる。風船ガムは膨らまない。代わりにそこはやっぱり見慣れた形で微笑んで、茶色い瞳が俺を見た。夢に出てきたあの人は紛れもなく丸井先輩だった、と、起床から約十二時間、改めて思った。
 ベッドなんかよりずっと硬い、高架橋の柱に背中だけで寄りかかり、先輩は俺を見る。
 俺の姿が映っているのがわかるくらい、なんとなくその両目を眺めていたら、あの唇が薄く開いて、「なんだよ」、いつもより小さな声で言った。俺にだけ聞こえればいいから。
 何も答えずに唇を重ねて舌を絡めたら、夢ではそこにあったかどうかも覚えていない温度がわかった。
「先輩」
「ん」
「甘い」
 囁くような音量で交わした短いやりとりでは、こんどは俺が返事を貰えずに、代わりに同じ味の続きが届いた。
 丸井先輩の口のなかはしょっちゅう甘い味がする。大概が、先輩の好きなグリーンアップルのガムの味。
 試合中も構わずガムを膨らまして、部活のランニングで声を出して、さっきまで俺と喋っていて、俺以外の誰かともそりゃあ当たり前に会話する唇が、いま俺とこうしてただキスをしているのは、ぼんやりと妙な心地がしたし、同時に、そうじゃないと嫌だ、と漠然と思った。
 好きだと思った。
 夢のなかで、こんな風にこの背中に腕を回したことは、この人には教えないし、俺だってもういらない。