所縁と鈴
 
 
 私にはあこがれの先輩がいる。
 はじめて見かけたのは去年、高一の海原祭のとき。校舎のまわりには模擬店やちょっとした野外ステージが特設されていて、先輩はそのあたりをクラスの模擬店の宣伝をしながら歩いて回っていた。
 いっしょにいた派手で華やかな雰囲気の男の子たちのなかでも、その人のアイドルみたいな顔立ちは、いちばんにきらきら輝いて見えた。
 いっしょに海原祭を回っていた友達に思わず「ねぇねぇ、あの赤い髪の人、超かっこいいんだけど」なんて、ときめきをさっそく報告してみたら、友達も「あ〜」と共感する声と表情で、「丸井先輩はね〜、やっぱイケメンだよね」とその人の名前を教えてくれた。
 私は高校から立海に入った外部生だから、その人がかっこいい、とか、かわいい、とかで有名な先輩であることも、うちの強豪の男テニのレギュラーだってことも、モテモテなのにずうっと彼女を作っていないことも、ぜんぶその日にはじめて知った。友達いわく、彼はみんなのものなんだそうだ。
 そんな「丸井先輩」の宣伝効果は抜群で、私たちはまんまと、先輩の片手の手持ち看板に書かれていた学年とクラスと、たこ焼き、の手書き文字を記憶して、その教室をなんどか覗いた。
 そうやって、丸井先輩が接客しているときを狙って受け取った、たこ焼きの詰められた透明のパックは宝物めいていた。だから、おかしな話だけれど、私はあれからショッピングモールなんかでたこ焼きを食べるたびにあの日を思い出す。そんな、くだらなくてきらきらした思い出があるのだ。
 
 そしてこの春、高二になって、ずっと嫌だ嫌だと思いつづけていたクラス替えがついに行われた。私に「丸井先輩」とはなんたるかを教えてくれた仲の良い友達とはやっぱりクラスは離れてしまったし、これだけ多いクラス数のなかで、しかも私は外部生だから新しいクラスメイトのほとんどが知らない顔だった。内部生のなかでは、すでに中学からの親しいグループがとっくにできあがってるみたいだし、去年みたいに友達をうまく作れるかも不安で、そんな憂鬱は隣の席の男の子のせいでさらに強固なものになってしまった。
 その男の子は、目つきが悪くて、長めで癖のある黒髪もなんだかこわい雰囲気に加担している気がする。
 でも、せっかく隣の席だからとちょっとだけ勇気を出して、名前と部活と出身中学くらいのかるい自己紹介をしてみたら、「あーうん、よろしく」なんて短いせりふしか戻ってこなかった。だから彼の名前はそのあとのホームルームの、ひとりずつ立ち上がっての自己紹介ではじめて知ることができた。「切原くん」、なんだか名前もちょっとこわいみたい。
 そんな新学期の憂鬱の象徴みたいだった彼が、打って変わって私の希望となる日はそれからすぐだった。
 
「げ。丸井さん」
 休憩時間中、近くで誰かが発したその名前は、わたしにとっては自分の名前を呼ばれたときみたいに、雑音のなかでもはっきりと響いて聞こえた。
 なにか考える前に顔を上げたら、うちのクラスの入口にはなんと、あの丸井先輩がいた。思わず固まってしまった私の隣で、切原くんは「また購買っスかぁ?」なんて言いながら立ち上がり、先輩のところまで移動して、なにやら話をしていた。
 それじゃあ、さっき丸井先輩の名前を呼んだのは切原くんなのだとゆっくりと結びついて、ふたりって知り合いだったんだ、なんて驚きながら、突如現れたあこがれの人に私は当然釘付けになる。立海プリンがどうだ、肉まんがどうだ、という彼らの会話はよくわからなかったけど、切原くんを連れて颯爽とクラスを出て行くまでの十秒間で、丸井先輩はやっぱりきらきらしていた。
 それから丸井先輩は、たまに、二週間に一回くらいの頻度でうちのクラスに現れては、切原くんを連れてどこかに行ってしまった。いちど、教室の廊下の窓から突然ひょこっと顔を出して、窓際の席に座っていた私と友達に「なーごめんな、キリハラ呼んでくんない?」と声をかけてきたものだから、私は思いっきりどぎまぎしてしまった(友達が代わりに切原くんを呼んでくれた)。
 切原くんも、男子と、とくに丸井先輩と話しているときは私みたいなクラスメイトの女子と話すときのようにつめたい雰囲気じゃなくって、ふつうの男の子みたいだから、はじめはふたりが仲が良いのを意外に思っていたけれど、最近はもう思わなくなった。
 それにしても、今まで学校行事や移動教室の運の良いときにしか見かけられなかった丸井先輩と、偶然でも、いちどでも話せて、切原くんにはお礼を言いたい気分だった。やっぱり、こわくて話しかけられないのには変わりないけれど……。
 
 それから初夏を迎えて、衣替えをした。夏服になった丸井先輩はさわやかな雰囲気がまぶしくて、私がそんな半袖の先輩を見かけたのはうちのクラスの教室じゃなく、電車のなかだった。
 部活休みの平日の放課後、学校の近くのショッピングモールで友達と遊んだ帰り、乗り込んだ電車には部活終わりの人たちがちらほらと乗り合わせていた。
 偶然、そのなかの、大きな部活用のかばんを背負ったふたりが、なんと丸井先輩と、そしてやっぱり切原くんで、彼らは私の座る座席から少し遠くの、斜め前のところに座った。
 切原くんは同じ車両にクラスメイトがいることには気づいていないみたいだったし、私は私で不意打ちでのあこがれの先輩にどきどきして、でもこのまま盗み見なんかしていたら、ふたりになにかがばれてしまうような気がして恥ずかしいから、俯き気味にだまっていた。
 最初は、いつものうちのクラスの入口での立ち話みたいに交わされていたふたりの声だったけれど、だんだん静かになって、とうとう会話がなくなった。それをふしぎに思ってつい彼らのほうを向いたら、切原くんはこの電車のやさしい揺れのせいか、丸井先輩の肩に頭を預け、うたた寝してしまっていた。
 丸井先輩はといえば、当たり前みたいな顔でそのまま肩を貸していた。切原くんを反対側に無理やり押しのけるとか、クラスの男子だったらやりそうなそういう乱暴なことなんかせずに、平然とケータイを開いていた。
 丸井先輩ってやさしいんだなぁ。
 そうだといいなって思ってた。
 今までも、友達みんなと恋バナをするとき、誰がかっこいいかなんて話題で、丸井先輩の名前を自分が挙げるだけでなんだかうれしかったけれど、そのときの気持ちに似ていた。
 それにしても、いいなぁあんなの、羨ましい、切原くん……。
 そんな本音を抱えていたら、思わず丸井先輩の横顔を思いっきり見つめてしまっていたようで、視線を感じたのか先輩の目線だけがケータイからこっちを向いた。
 私は先輩とそんなふうに目が合うだけでも、前にクラスで声をかけられたときみたいにどぎまぎしてしまって、とりあえず会釈をした。私のことを切原くんのクラスメイトだと覚えてくれているのかいないのか、丸井先輩は挨拶代わりみたいに少し笑ってくれた。
 それから先輩はケータイに視線を戻した。私もどうにか、膝の上に置いた通学鞄に目線を落として、鞄からぶら下がるくまのキーホルダーを手先でいじってみたり、無理やりにふつうに時間を過ごした。
 もう丸井先輩のことを見つめてることがばれたりしないように、キーホルダーばっかり代わりに見つめて、一駅ぶん電車に揺られた。
 そうして次の駅で降りるとき、おそるおそる、変に思われない程度に先輩のほうに顔を向けたら、丸井先輩は私を見て、低い位置で小さく手を振ってくれた。きっと、私のことを覚えてくれてたみたいだった。それがあんまりうれしくて、かるく会釈をする途中から口元が緩むのを抑えられなかった。電車を降りて、思わず小さくスキップしてしまう。
 うれしい。うれしい。覚えててくれた、私のこと。
 電車のなか、緑色の座席で、丸井先輩の肩で眠る切原くんのことがものすごく羨ましかったことなんて、そんなことはすっかり忘れてしまった。スキップをして軽くなった靴で小走りしたら、通学鞄のくまのキーホルダーが揺れて、ちいさな鈴の音がした。気分通りの音色だった。