海岸通り 1
 
 
 暦上は秋になっても、九月の風はまだ生ぬるい。金曜日、部活帰りの午後六時。入学前に新調してから一年と半年、ほとんど毎日登下校を共にした自転車に乗って、その風を切る。
 いつも通りの通学路。コンビニのある通りを抜ければ、海を見渡せる小高い丘がある。上り坂で体重を前にかけて、力を込めてペダルを踏んだ。潮の匂いの濃さと比例して、風が少しだけ冷たくなる。坂を上るにつれて、海の水面が視界を下から段々と埋めていく。水面に映った真っ赤な夕焼けが眩しくて、目を細めた。
 お前のテニスが好きだ。俺にそう言った人がいる。過去にひとりだけ。
 そんなことを思い出したのは、たぶん、目の前に広がる景色が、その人みたいな色をしていたから。
 ハンドルを捻って、下り坂にタイヤを滑らせる。わざわざ自転車を止めて夕焼けを眺めるほど、感傷的な性格ではなかった。
 坂を下り終えて堤防沿いの道を進む。下り坂でついたタイヤの回るスピードは、平地を走っていくにつれてゆっくりと落ちていった。堤防を越えて届く潮風を左頬で受けながら、見慣れた通学路の風景を見るともなく見ていた。
 そうして、しばらくタイヤを転がしたあとだ。面白味のない景色の中に、一際目立つ後ろ姿が目に入った。その姿を久しぶりに見た俺は、なんだか驚いてしまって、思わずその場で急ブレーキを掛けた。タイヤの擦れる音と、シューズが砂利を踏む音。それらよりワンテンポ遅れて口を開く。
「丸井先輩!」
 名前を呼ばれてその人は振り返る。夕焼けに似た色の髪を潮風に揺らしながら。随分と気の早い位置から声を掛けてしまったせいで、表情はよく見えないけれど、彼は小さく笑った気がした。
 
 
 1
 
 
 思えばこの一年と半年で、誰かを交えて帰路につくことは何度もあったけど、丸井先輩とふたりだけで帰ったことは案外数えるほどしかなかった。初めてふたりで帰ったその日は、初めてふたりで話をした日でもあったのを覚えている。
 中一の春の日のことだ。
 俺がテニス部に入部して一週間後、放課後の特別教室を借りて行われた部の新入生歓迎会。紙コップに注がれたオレンジジュースをひとり飲んでいるところに、丸井先輩が近づいてきて、俺の頭に手を置いた。
「よう。お一人様?」
 子供をあやすような愛想の良い笑みを浮かべて、先輩が言った。そのわりに、俺の頭を撫でる手は乱雑で、その手を振り払っても全く気にしない様子で風船ガムを膨らます。
「なんスか?」
「別に。一人で寂しそうだったから」
「そーいうのいいっス。俺あんま、馴れ合いとかする気ないんで」
 こんどはその人はおかしそうに吹き出した。俺が露骨に嫌な顔をしても、やっぱり気に留めない。
「そうなんだ。クラスでは友達いんの?」
「……それはフツーに」
「へえ。部活じゃテニスに集中っつーこと?」
「それもあるけど、色々だりいから」
 先輩は、ふーん、と興味の乗らない調子で相槌を打った。自分から聞いてきたくせに、やたらと薄いそのリアクションへ文句を吐きかけるも、べつに関心を持って欲しいわけでもないから、喉の奥でそれを飲み込む。それに、入部早々真田先輩に絞られてばかりだった俺にとって、話が説教臭くならないのはありがたかった。
「じゃあ、やっぱダブルスする気はねぇんだ」
「ないっスね」
「だろうなぁ」
 丸井先輩は頷いて、再び俺の頭に手を載せた。出会った初日から、この人はよくこの所作をする。頭にのし掛かる手のひらの重みは、馴れ馴れしいのと、明らかに子ども扱いをされているのとで、ちょっと気に入らなかった。
「先輩、これって癖っスか?」
「何が?」
「頭触んの」
「……あー、そうかも? うち弟いっから」
 勝手にひとりで納得した、そういう雰囲気で先輩は頷いて、俺はといえば、出てきた弟という言葉に内心で不満を募らせた。その二週間前に三強に敗北したばかりの俺は、一年ぶんの歳の差の大きさを痛感していたから、尚更だった気もする。
 不意に、頭に載せられた手のひらが手遊びをするように俺の髪を一房摘んだ。先輩はそれをまじまじと見つめながら口を開く。
「つーかさぁ、お前の髪っておもしれぇよな」
「は?」
 思わず睨み上げると、先輩はその大きな両目をぱちくりと瞬かせ、
「なんだよ、もしかして気にしてんのか? いいじゃん、ワカメみたいで」
 ワカメって美味ぇし。ご丁寧にそんなことを付け足して楽しげに笑いやがった。聞き捨てならない言葉に頭に血ののぼった俺は、丸井先輩の手をさっきよりも強い力で振り払う。
 何すんだよ、と言った先輩の声色はいつも通りだったけど、俺の顔──たぶん目を見た瞬間、その表情が険しいものに変わった。
 ただならぬ空気が伝わったのか、周囲で談笑していた部員たちは会話を中断し、いくつかの視線が俺に集まるのを感じた。けれど、そんなことを気にする余裕もないまま、俺は気づけば先輩の頬を思いっきりぶん殴っていた。拳が肌を殴る鈍い音が響いて、教室全体がしん、と静まり返る。
「……いっ、てぇなぁ」
 殴られた衝撃でふらついた先輩は、踏みとどまると頬に手の甲をあてて、俺を睨みつけた。こんな目で睨まれることは今までに何度もあった。通っていたテニスクラブや、何度も出場した大会で、対戦相手を怪我させたとき。
 先輩のそばに数人の部員が駆け寄り、心配そうに声を掛けた。申し訳ないなんて気持ちは微塵も湧いてこなかった。喧嘩を売ったアンタが悪い、そう口を開きかけた瞬間、丸井先輩が躊躇なく俺に近づいてきて、左頬に強い衝撃がぶち当たった。
 衝撃に耐えきれずにその場に尻餅をついて、顔を上げると、だらりと下げた右手首をゆらゆらと揺らしながら、俺を殴り返したその人がこっちを見下ろしていた。その目はもう俺を睨んではおらず、口元には笑みが浮かんでいる。
「てめぇ……!」
 更なる怒りがふつふつと湧き起こり、勢いよく立ち上がって、先輩に突っかかろうと身を乗り出した。そこを後ろから、ぐっと誰かに羽交締めにされたから、振り向いて抵抗しようとした瞬間、
「丸井! 切原ぁ!」
 教室の扉が勢い良く開いて大きな音を立てた後、ここ一週間ですでに聞き慣れてしまった怒鳴り声が、教室中に響いた。驚きで肩を跳ねさせ、教室の入り口を振り向くと、鬼の形相の真田先輩が、俺と、たぶん丸井先輩のことも睨んでいた。
 ◇
 
「ったく、だりぃなぁー」
 まとめて教室の端に追いやっていた机を元の位置に運びながら、丸井先輩がため息混じりに独りごちた。俺はその声を無視して、同じく机を運び続ける。
 あのあと、俺と丸井先輩は揃って真田先輩に鉄拳をお見舞いされ、さらに罰として明日の朝練でのランニングと筋トレのメニュー増加、そして、この新入生歓迎会の会場であった教室の後片付けを言い渡されたのだ。部員全員分の大量の紙コップは既にまとめて捨てに行って、あとは机を運ぶだけ。
 けれど、普段使っている教室の二倍の広さはある特別教室の机をふたりで運ぶのは大変で、時間はまだまだ掛かりそうだった。
 真田先輩に再び叱られるのは勘弁だから、さすがに片付けを放り出したり、丸井先輩と責任の押し付け合いの口論なんかをしようとは思わないけど、俺はとても苛ついていた。髪について言われたことにも、殴り返されたことにも、今、こんな風に罰を受けていることにも。
「……あんさぁ、」
 しばらくの沈黙のあと、丸井先輩はそう切り出して、机を運ぶ手を止めて俺のほうを見た。それを、俺は目を合わさないまま、視界の端のほうで捉えていた。
 先輩は俺が相槌を打つのを待っているみたいだったけど、あえて無視を決め込んで、黙々と机を運んでみせる。どんな文句を言ってくるのか知らないけれど、俺だって我慢しているのだから、黙っていてくれればいいのに。俺からの返事は返ってこないと見越したのか、先輩はそのまま言葉を続けた。
「さっき、ごめんな。嫌だったんだろ。悪かった」
 片耳で聞いたその言葉は、俺を拍子抜けさせるものだった。一瞬、間抜けな顔をしてしまった気さえして、慌てて口をきゅっと一文字に結ぶ。てっきり先に殴ったことなんかを非難されて、文句を言われるものだと思ったのに。
「…………」
 無視を決め込むつもりが、俺は思わず机を置いて、先輩のほうに向き直ってしまっていた。その人は笑うでもなく、特段申し訳なさそうな顔をするでもなく、ただまっすぐに俺を見ていた。合った視線を、俺は思わず下に逸らす。
 なんとなく、何も言えなくなって、やっぱり黙り込んでしまった。
「…………い、嫌だったっス」
 そして、やっと絞り出したのはそんな言葉だった。
 先輩を殴ったときに俺を支配していたのは、ムカつくだとか、怒りだとか、そういう表現の似合う感情だったけど、嫌だったんだろ、と言われれば間違いなくそうだったから、馬鹿正直に答えてしまった。
 俯き気味のままそう呟いた俺に、先輩はもういちど「ごめん」と言った。
 素直に答えてしまった自分だとか、予期しない先輩の態度だとか、この教室に充満する空気の全てがきまり悪くて、頬にかっと熱が集まるのがわかった。
 この丸井先輩という人は初対面から慣れ慣れしくて、こっちの気分になんて見向きもしない、自分本位でおちゃらけた人のはずだった。こうやってちゃんと人の目を見て、自分から謝ったりなんか、しないような感じの。
 少なくともこの二週間で俺が接したその人は、そうだった気がしたのに。
 目線だけで先輩の顔をちらりと見上げると、やっぱりちゃんと目を合わせてくるから、無視をするのも、非難するのも面倒になって、いちどだけこくりと頷いた。
 こんなに簡単なことで許したなんて思って欲しくないけれど、あれだけ苛ついていた気持ちが、いつのまにか消えていたのも本当だった。
 先輩は小さく笑って、サンキュ、なんて呟いて、机を再び運び始めた。どこか煮え切らない気持ちを抱えながら、俺も運びかけの机に手をかけた。
 
 ◇
 
 片付けを終えて教室を出る頃には、丸井先輩はいつも通りに口端を上げて、俺を一瞥した。そのあとは、ダルかっただとか、腹が減っただとか、物を運ぶのは好きじゃないだとか、自由奔放に口を動かして、すたすたと廊下を進んでいくものだから、俺は呆気に取られながらも後をついて行った。
 普通、あんな風に誰かに謝った後は、もう少ししおらしい態度になるものなんじゃないのか、なんて、その後ろ姿を睨みつけてみても、飄々とした足取りはまるで変わらない。
 何だかばからしくなって、余計なことを考えるのはやめた。わざわざ気まずい思いをせずに済んだわけだし、その変わり身の早さも、やっぱり嫌というわけではなかったのだ。
「お前、チャリ通だっけ」
「そっスけど」
「じゃあコンビニ寄ってなんか食って、駅で解散な」
 校舎の端の駐輪場の手前にて、否応無しにその後の流れを決定された。俺も腹は減っていたから、提案自体に文句は無かった。それに、ここでどぎまぎした態度を取るのも、俺ばかりがさっきのことを気にしてるみたいで悔しかったから、へーい、と素直に返事をして、自転車を取りに行った。
 歩いている先輩の横で、それに跨る素振りをしてみせると、ひとりだけ悠々と自転車で走るなんてことは、やっぱり許してくれなかった。
 その反応は予想通りで、初めて優位に立てたような気がして、少し気分が良かった。笑ってしまった俺を見て、先輩も笑っていた。
 しばらく自転車を押して、コンビニのある通りに辿り着いた。そこでホットスナックのチキンを揃って購入し、店の前に停めた自転車の隣で早々に袋を開け、並んで食べ始める。
 そこへ俺たちと同じ制服を着た男子生徒が数人やってきて、丸井先輩に親しげに声をかけてきた。同じく新歓終わりの、他部の生徒みたいだった。
「おっ、丸井じゃん」
「よーっす」
「丸井、真田に怒られたって?」
「もう知ってんの」
 先輩はけらりと笑って、「そーそ、怒られた。コレと一緒に」と俺の頭に手を載せた。コレ呼ばわりされたことには反論しつつ、先輩の「癖」をいちいち振り払うのは、面倒だからもうやめた。
 丸井先輩の友人らしい、その知らない先輩達は俺を見ると、一年なのにかわいそうだと言って笑う。
「ただの一年じゃねぇからさ。期待のエースなんだよ。な?」
 すでにチキンをたいらげた丸井先輩がそう言って俺に同意を求めるから、咀嚼していた肉を素早く飲み込んで、「当然っス」と頷いた。
 そんな俺たちのやりとりに先輩たちはまた笑って、労いの言葉と別れの挨拶をよこすと、コンビニのなかへぞろぞろと入っていった。丸井先輩は彼らに軽く手を振って、俺も一応頭を下げる。
 それとほとんど同時にチキンを食い終わった俺と先輩は、コンビニを離れて、駅までの道のりを再び歩き始めた。
 通学路に吹き込む潮の匂いには、一ヶ月弱でもう慣れていた。四月の潮風は少し肌寒い。
 取るに足らない会話を適当に交わしながら坂を抜けて、海沿いの道を並んで歩く。それまでふたりきりでは会話したこともなかった丸井先輩と、こんな風に寄り道までして、並んで帰っているのは少し変な心地だった。
 横にいるその人をもの珍しく眺めてみた。なんだよ、と俺を見やる先輩の目線は、ほかの先輩達と比べると近いほうだけれど、それでもやっぱり見上げなければならなかった。その深緑の制服は、まだ着用し始めて二週間しか経っていない俺のそれと違って、一年分くたびれていた。
「なんか、アンタとふたりで帰ってんのって、変な感じだなって」
 思ったことをそのまま答えると、丸井先輩は少し黙ってから、膨らませた風船ガムをぱちんと音を立てて割り、
「まぁな」
 そう言って、前を見ながら頷いた。
 俺の押している自転車の車輪が、緩やかに音を立てていた。ざく、ざく、シューズの立てる砂の音が、いつもより大きく聞こえた。
 少しの間の沈黙の後、丸井先輩が口を開く。
「そういやお前、さっき言ってたやつさ」
「はい?」
「部内の馴れ合い? 色々だりいっての。何でだりいの」
 新歓ではどうでも良さそうな相槌ひとつでその話題を終わらせたくせに、そんなことを聞いてきた。その声の温度は高くも低くもなくて、押し付けがましくないというか、ほかの先輩と違って、やっぱり説教臭さはない。だからさっきまでのたわいもない会話の延長として、何の気無しに答えた。
「あー、それは、俺のプレイスタイルって好かれないっしょ。今までテニスクラブとかで友達っぽくなっても、のちのち微妙だったっつーか。だから」
 先輩は、ふーん、とさっきと同じ相槌をよこして、今回はもう少しだけ返事が続いた。
「なる程な。じゃあ別にいっか」
「はい」
「俺は、お前のテニス好きだけど」
 俺を見下ろすその顔はすっきりとした笑顔だった。俺はそのとき、おかしなことに、ここ二週間、毎日目にしていた丸井先輩という人の顔を、初めてちゃんと見たような、そんな気がした。
 テニス部に入部して二週間、俺はあの三人の鬼才を倒してナンバーワンになること以外に興味はなかった。きっと、これからだってそうだ。誰が何と言おうと、俺にとってのテニスは、勝つことだけが何よりも大事なんだ。俺のテニスが誰に好かれようが、嫌われようが、そんなことは関係ない。
 だから、その言葉がうれしいわけでも、悲しいわけでもなかったけれど、この人はそうなんだ、と知ることができたのは、悪い心地ではなかった。そんな風に思う。
 先輩に向けていた目線を、目の前の景色の方向に戻した。なにげない表情と声色を少しだけ意識して、口を開く。
「丸井先輩って」
「ん」
「ちょっと変わってるっス」
「そーか?」
「……だって先輩、ファミチキ食うの速すぎでしょ」
「はぁ? 悪ぃかよ。つーか変わってんのは、どう考えてもお前だろい」
 隣から拳をこめかみにぐりぐりと押し付けられる。さっきのは適当に貼り付けた軽口だと、この人は気づいていただろうか。
 「生意気言ってっとまた殴るぞ」、と先輩が冗談めいた口調で言うから、そういえば忘れかけていた、教室の片付けを始めたときの苛ついた気持ちを思い出した。
「俺だって、殴り返してやるっスよ」
 わざとらしく眉根を寄せて睨んでみせると、先輩はまたおかしそうに笑った。俺はといえば、今は笑ってやらないけど、笑ってもいいような気分だった。
 そうして歩いているうちに学校からの最寄り駅について、今度こそ自転車に跨る。帰り際、明日の朝練が憂鬱だと先輩が洩らすから、そのことをすっかり忘れていた俺も、急に気分が重くなった。
「ま、頑張ろうぜ」
 先輩は項垂れた俺の頭に軽いチョップをよこして、そのまま片手を振りながら、「じゃあな赤也」、そう言って、あの軽い足取りで駅へと歩いていった。
 初めて俺の名前を呼んだ、赤い髪の目立つ後ろ姿を、目線だけで見送った。その人が駅のなかへ姿を消す前にハンドルを握り、通学路に自転車を走らせた。そういう春の日があった。