海岸通り 2

 

 

 こんな言い方をしたら、その人は怒ったり、あるいは怒った素振りをしてみせるだろうが、入部前からやけにちょっかいを掛けられていたわりに、俺が丸井先輩のことをきちんと印象に残したのは、あの春の日が初めてだったように思う。
 入部したての俺は、目の前の敵を倒すことと三強のプレイにばかり夢中で、周りの景色を見渡すような余裕は持っていなかった。そんな俺が練習の合間、その人と、そのテニスプレイが目に留まるようになったのはそれからだったのだ。
    
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 春が過ぎて、夏も終わったばかりの去年の今頃。日曜日、午前。通学路の上り坂で、じりじりとした太陽の光を直接浴びながら、自転車を立ち漕ぎで押し進めるたびに、小さく軋んだ音があがる。春にはまだ肌寒かった潮風は、半袖のシャツを背中で膨らませていた。
 その日は、俺がレギュラーとして出た初めての練習試合だった。相手は一学年上だったけど、結果は当然、俺の勝ち。立海大附属のレギュラーとして誰かを倒せる初めての試合は、楽しみにしていたわりにあっけなく終わった。
 さっきまで立っていたコートで入れ替わりに別の試合が始まるなか、拍子抜けした気分のまま、水飲み場へと駆け寄った。変わらず天気は蒸し暑い。逆さにした蛇口から噴水のように湧き出る水を飲んでいる背中に、地面の砂を踏む足音の後、聞き慣れた声が掛かった。
「あーかや」
「ぶ、っ!」
 呼ばれた名前の、や、の部分で後ろから尻を蹴り上げられ、驚いた俺の鼻の辺りに蛇口の水が直撃する。と、同時に思わず振り向くと、今度は冷たいそれが後頭部に容赦無く降りかかった。その様子を見て腹を抱えて笑う目の前の人は、かなりひどい先輩だと思う。
「だー、もう! 何なんスか! 濡れたんスけど!」
「あっはは! すげーな、予想通り過ぎ」
「すげーのはアンタのメーワク行為っスよ!」
 俺がそう吠えたことすらも、この人にとっては笑いの材料になってしまったらしい。かなりひどい先輩こと丸井先輩は、目の端に涙まで浮かべて笑い続けている。
「あはは、くくっ……あー、はは。あー笑った。そうだ。幸村くん、やるってよ。試合」
 先輩は笑いの冷めやらぬまま、立てた親指の先でコートの方向を指して、思い出したようにそう言った。わざわざ教えてくれるのはありがたいけど、もうちょっと、いやだいぶ、やり方ってもんを選んでほしい。
「どーも、アリガトーございます」
 丁寧なお礼には嫌味をたっぷり込めておいた。後頭部から滴る水を、肩にかけたタオルでごしごし拭いながら、コートへと踵を返す。
 上がりっぱなしの口角がやっと元通りになった先輩は、そんなあからさまな嫌味さえ気に留めない。それは入部してからの数ヶ月で俺達の間に出来上がってしまった、いつも通り、だった。
「おう。にしても糸車さぁ、新チームは結構強いとかって噂されてたわりに大したことねぇな。幸村くんなら瞬殺だろい」
「……そっスね。さっきアンタとジャッカル先輩がやってたのって向こうの部長ペアでしょ?」
「らしいな」
 染み込んだ先輩後輩の上下関係、というより、丸井先輩個人とのやりとりの経験から、どうせあしらわれる無駄な文句は渋々飲み込んで、会話を繋げる。上がった話題は練習試合の相手校のこと。先輩の会話の流れはたまにマイペースだ。さっき自分がダブルスで対戦していた相手の話にも、他人事みたいに頷いた。そんな横顔を見て、不意にその試合を思い返す。
 丸井先輩が自ら妙技と呼称する、対戦相手の度肝を抜くトリッキーなボレー。華やかで派手なそのプレイスタイルの根底にある、固められた基礎能力と、状況を客観的に見据える観察眼。それはあっけらかんとした普段の振る舞いとはあまり結びつかないものだった。
 見ていて楽しいテニス。丸井先輩のそんなテニスは、しばしばそう評された。
「あ。もう始まってんじゃん」
 ねぇ、アンタってさ。そう口を開きかけたのを、幸村部長の立つコートを見て呟いた先輩の声に制された。俺の意識もそっちへ行って、そのまま並んで試合を見始める。
 そこで広がる試合展開は完全に幸村部長の支配するそれで、完璧な空間だった。完璧で強い、ならそれがいちばん良いに決まってる。ふと思った。幸村部長のテニスを見ていて楽しいと言う人は見たことがない。真田副部長も、柳先輩も。というか、俺が知る限りそんなことを言われるテニスをする人は、丸井先輩だけだ。
 全然違うな。俺とは特に。
 俺のテニスといえば、対戦相手にはしょっちゅう、試合を見ているギャラリーにだって敵意のある視線を向けられてきた。頭に血がのぼったとき、俺はそういうテニスをすることを選択する。そんな俺を誰かが睨むのは当たり前だし、べつにそれで良かった。俺はそうやって勝つのだから。
 勝つ。自身の浮かべた言葉を心の中で反芻する。幸村部長がいつも通り、相手にポイントをひとつも譲らずに試合を進めていく姿を眺めながら、早くこの人に勝ちたい、と思った。
「マジで瞬殺っスね」
 さっきの先輩の言葉を借りて、半分独り言のように呟くと、隣から短い相槌が届く。横目でちらりとその表情を盗み見て、今、この人は幸村部長の試合を見て何を思っているのだろう、と、ぼんやり考えた。
 春が過ぎて、夏も終わった。俺と丸井先輩は、わりとたくさん会話をした。俺は同級生なんかとも必要以上に関与しないから、部の中じゃ一番近い存在だ。けれど、交わす会話はいつだってくだらないもので、テニスについて真剣に話したりだとか、そういうのはしたことがない。
「赤也」
「はい?」
 だから、丸井先輩が何を考えてこの試合を見ているか、テニスをしているかなんてわからないし、そもそも考えたこともなかった。でも、先輩がやたらと重いパワーリストを付けていたり、帰り際にダブルスパートナーであるジャッカル先輩としょっちゅう自主練の約束をしていたり、そういうことは知っている。
「帰りラーメン行かね? ジャッカルと」
「俺、今日コート整備なんスけど、待ってくれんなら」
 そもそもこんな厳しいチームにわざわざ身を置いているんだ。俺とは全然違うテニスをするけど、どうせこの人も、たぶん。
「じゃ、いいや。待たない」
「ひでぇ」
「腹減ってるし」
 いつも通りのなにげない会話と、ボールと幸村部長の動きを目で追う端々でそんなことを考えていたら、瞬殺なだけあって、推測の結論が出たあたりで、試合も同時に終了した。
 ◇
「丸井先輩ってさぁ、やっぱ憧れるよな。テニス上手いし優しいし」
 同級生の部員が唐突にそう切り出したのは、その後の部室での出来事だった。持ち回りで回ってきたグループ制のコート整備を済ませ、部室に戻って、ユニフォームから制服へ着替えていた時のことだ。隣で着替えている同級生の持ち出した褒め言葉の、ふたつめのほうが話題に出された名前と到底結びつかずに、俺は思わず顔をしかめる。
「優しい? 丸井先輩が?」
「優しいだろ。後輩想いでさ」
 否定の意を表すつもりで怪訝に言葉を繰り返してみせると、その場にいた同級生達が口を揃えて丸井先輩の優しさとやらを肯定し、頷くものだから驚いた。話によると、そいつらはここ数日、昼休みに丸井先輩に練習の面倒を見てもらっているらしい。レギュラーなだけあって、基礎ももちろんしっかりしているから指導も分かりやすく、自分たち後輩のことを気にかけてくれる、と言うのだ。
「いやいや、優しいっつって。あの人ジャッカル先輩のこと、いつも良いように使ってるし、つーか今日なんか水かけられたんだけど!」
「それはアレだろ、赤也と仲良いからじゃん」
 ひとりがそう言うと、周りの奴らはまたしても揃って頷いた。基礎練や整備のときくらいしかろくに会話もしない、部の同級生のほとんどがこうやって俺を名前で呼ぶようになったのも、あの新歓の日以来、丸井先輩が俺をそう呼ぶから、その周りから広がったものだ。その事実ももしかしたら仲が良いと言われたひとつの要因なのかもしれないし、実際、親しいんだとは思う。
 だけど、だとしたらどうしてあの人と仲良くない奴は優しくされて、仲が良いとされる俺は適当に扱われなければならないのか。そもそも優しい人は、先に殴られたからといって、後輩に向かってあれだけ遠慮の無いパンチをかますのか。春の出来事まで遡って、色々と文句を垂れ流したけれど、同級生たちには聞き流されてしまった。
 次の日、そのことを丸井先輩本人に話したら、自分は優しいに決まっていると大袈裟に頷いてみせ、それを否定する俺の髪をわしゃわしゃと乱してきた。思いっきり手を振り払って睨みつけてやれば、春と比べればずいぶん近くなった目線を臆すことなく合わせてきて、余裕綽々の表情で笑っていた。
 そういえばいつからか先輩は、出会った頃によく見せていた、子供をなだめるような笑顔を俺には向けなくなっていた。
「なーに先輩にガン飛ばしてんだぁ? 念願のレギュラーになれたからって調子乗ってんじゃねぇぞ」
「こっちの台詞っス! つーかアンタこそ、や、っ、と、念願のレギュラーじゃん」
 俺たちがそうやって軽口を叩き合っていると、同じく「念願のレギュラー」になったひとりであるジャッカル先輩が仲介に入ってきた。丸井先輩はそれに構わず、俺の髪をますますぐしゃぐしゃに乱してくる。ジャッカル先輩の焦った声が聞こえる。せっかくワックスでキメた髪型が乱れてムカつくはずなのに、先輩たちとのそんなやりとりに、つい笑ってしまった。
 そんな去年の秋は、ちょうど今みたいな生ぬるい風が、しばらくのあいだ吹き続けていたように思う。練習についていけずに辞めていく部員も多いなかで、俺はレギュラーとしてそれなりに順調な日々を過ごしていた。三強にはいまだ勝利を収められないけれど、練習を重ねたぶんだけ、自分の実力が伸びているのも感じていたのだ。
 レギュラーになってからの時間は、それまで以上にあっという間に過ぎていった。新レギュラーの先輩たちは変わり者ばかりでムカついたりもしたけど、俺はその人たちといっしょにいる空間が嫌いじゃなかった。そういう気持ちは、初めて丸井先輩とふたりで海沿いの道を歩いて帰った、あの日のそれと少し似ていた。