海岸通り 3
 
 
 詳しくは知らないけど、アドレナリンだとか、たぶん、そういうのだ。試合中は、勝つこと以外の何に触れても体が反応しなくなる。刺すように吹く冷たい風にも、擦りむいた足の傷の痛みにも、対戦相手が俺に向ける、怯えと不満の入り混じった視線にも。
 二月の平日、昼休憩、立海大のテニスコート。肩で荒い息をしながら、ネット越しに俺を睨む同級生の足から滴る血の色を、焦点の上手く合わない視界に映していた。
 
 3
 
「赤也」
 誰かが俺の名前を呼んだのは、たしかに聞こえていた。荒いものではなかったその声が、それでも規制の意思を孕んだ色をしていたのはわかっていたけれど、それを気に留める選択肢を持ち合わせていなかった。目の前の敵が、俺のテニスに崩され、平伏していく。その事実だけが俺を満たしていった。
 黄色いテニスボールが対戦相手の足に直接跳ね、その衝撃でそいつが座り込んだとき、俺の目の前に横から飛び込んできた赤い色。それが丸井先輩の後ろ姿だと認識できたのは、相手コートからネットまで転がってきたボールを、先輩がラケットの淵に載せて拾い上げ、俺のほうを振り返ったときだった。
「……先輩、邪魔しないでくださいよ」
「邪魔も何も、あいつ、今日はもう無理だろい」
 丸井先輩はコートの横で試合を見ていた部員にボールを投げ渡しながら、ついさっきまで俺の対戦相手だった同級生を親指で指す。
 早々にたいらげた昼飯のあと、訪れたテニスコート。自主練をしていた同級生三人のうちのひとりに、試合をしないかと気まぐれで声を掛けてみた。普段たいして話もしないし、気にかけてもいない奴だ。驚きながらも二つ返事で了承してくれたはいいものの、当然といえば当然、手応えを感じる暇もなく試合は終わろうとしていた。結果このザマだ。
「チッ」
 露骨に舌打ちをして、苛ついた気持ちの収まらないまま、ラケットを地面に投げつける。苛つきの対象は試合を中断した先輩か、実力不足の同級生か、その両方か、あるいは全く別のものか、自分でもよくわからない。
「……アンタ、いつから居たんスか」
「お前らの試合の途中。佐々木の練習、見てやる約束してたんだよ」
 不機嫌を隠さない俺の声音とは反対に、丸井先輩のそれはさっきから存外いつも通りだ。その声が口にした同級生の名前を聞いて、そういえばいつだったか、あいつは丸井先輩が優しいだとか、後輩想いだとかいう話題に頷いていた、そんなどうでもいいことを頭の隅で思い出した。
 同級生は駆け寄ってきた部員の肩を借りて立ち上がり、半分引っ張られるように歩き出す。コート全面を囲んだフェンスの出口は、こっち側のコートの後ろだ。俺に近づいてくるそいつの目線は明らかに逸らされてた。肩を貸している部員の横に、付き添うように歩く部員がひとり。すれ違いざま、俺に聞こえるようにぼそりと呟いた。
「ろくなテニスしねぇよな。レギュラーのくせに」
 瞬間、体の内側がぞわりと震えた。気づけば勢いよく振り返って、そいつの胸ぐらを掴んでいた。さっきより、試合中よりももっと体が熱い。誰かの声がまた聞こえているけど、機械的に音が耳に入ってくるだけで意味を成していない。湧き上がる感情のままに拳を上げ、それをそのまま、顔面目掛けて振り下ろした。もろに俺の拳を受けたそいつは二、三歩よろけたが、踏み止まって体勢を戻し、見慣れた目線をよこしてきた。一瞬交差したそれは逸らされる。「行こうぜ」と吐き出すように呟いて、その場を去るよう、他の奴らに促しながら足を進めた後ろ姿を、やすやすと逃す気はない。
「おい、待──」
 てよ、と、俺が最後まで発音しきる前、不意に斜め後ろから片腕を強く引っ張られた。予想だにしなかった力の流れるまま、後ろを振り向く形になった頬に、強い衝撃が降り落ちた。よろめいた体は、地面に滑らせた片足でどうにか踏みとどまったけれど、その衝撃を、丸井先輩が俺を殴ったのだと把握するまでに一瞬のラグがあった。
「……丸井先輩」
 驚いたように呟いたのは俺じゃなく、同級生たちの誰かだった。フェンスの出口の方を見やれば、三人が三人とも深刻そうな表情で固まっている。丸井先輩はもう俺のほうを見てはいなくて、そいつらに向かって口を開いた。
「お前らも、俺に見えるとこで、そーいうのはやめろ」
 さっきより少し低い声。
 先輩はすぐに、「もういいから早く戻れよ。昼休み終わるぜ」と付け足した。小さく礼をして、言われた通りコートから出て行く部員たちの後ろ姿を見るともなく見ている、そういう横顔は、俺が名前を呼ぶとこっちを向いた。
「……なんでアンタに殴られなきゃいけねぇんだよ」
 終わりかけの昼休み、見慣れたテニスコートのなかで、俺の声は全く異質なもののように響いた。先輩の少し気怠げに開かれた両目は、いつもと同じ、俺を見やるそれだった。
「あいつが殴り返さなかったから」
「は? 関係ないっしょ、俺とあいつのことと、丸井先輩は」
「俺が関係あるとかないとかじゃねーよ」
 先輩の飄々とした口調は俺の怒りを募らせた。体の横で握った右拳と裏腹に、わざとらしく笑みを持たせた口元で捲したてる。
「すげぇね、後輩かばって良い先輩じゃないスか。アンタってそーいう感じだったっけ? けど確かにあいつら、アンタのこと後輩想いとかって──」
「そうじゃねぇよ」
 揺るぎない口調で先輩が俺の声を遮った。
「……だってさぁ、殴りっぱなしでいんのって、ムズカシイだろ」
 お前、真田みたいにできんの。先輩はそう続けた。
 その言葉の意味はよくわからなかった。先輩がわざと伏せた言い方をしているようにも聞こえた。それでも、言いながら細まった彼の両目は、やっと少しだけ歪んだと言える表情の片鱗だった。
 昼休み終了を知らせるチャイムが鳴り始めて、それは一瞬、俺の返事に猶予をくれたけど、すぐに先輩が重ねて口を開いた。
「戻ろうぜ」
「…………」
「サボるにしてもここじゃダメだろい」
 何事もなかったかのような態度が、やっぱり気に食わない。気づけばさっきの同級生にしたそれと同じように、その胸ぐらを掴んでいた。詰め寄った距離で強調される、俺とほとんど変わらない位置にある目線。
 先輩は抵抗をしなかった。怯えるわけでも、責める色をしているわけでもないそれは、いつか見たことのある目だった。自分でも整理のつかない、虚しいような、きまり悪いような、知らない気持ちが渦を巻いた。胸ぐらを掴んでいた手をゆっくりと開く。
 少しだけ間が空いて、それきり口を開かない俺に、先輩はもう一度「戻るぞ」と言った。
「赤也」
 念を押すように、最後に名指し付きで。
 返事はしないまま、ひとりでコートを出た。丸井先輩は俺を追いかけて来なかったし、しょっちゅう理不尽に降りかかる文句も、俺の名前を呼ぶ声も、背中に届いてこなかった。
 
 ◇
 
 外は冷えるが部室の中もたいして変わらない。ミーティングと着替えでしか使われない部室に、ろくな暖房器具は置かれていないのだ。壁に掛けられた時計を見る。五時間目の授業が始まって、既に二十分は経過していた。こっそり鍵を開けた部室は、授業中のサボり場として絶好の場所だった。
 自分のロッカーに寄りかかりながら、ボードに掛けられた出欠表をぼうっと見ていた。几帳面に毎日の記録が残されているそれと、腕に巻きつけたパワーリストを交互に見つめる。
 このパワーリストは、パワー強化にもスタミナ強化にも直結して役立ったし、なかなか難しかった片足でのスプリットステップも、練習を重ねて習得した。そういえばその頃、周りに散々無理だと言われた立海の入試だって、猛勉強したらどうにかなった。
 でも、自分の努力では何も変えられない状況があることを、俺はその季節で初めて知ったのだ。とある冬の日の放課後、幸村部長が病気で倒れて、立海大のテニスコートからは部長がいなくなった。 
「……くそ」
 吐き出すように呟いて、表から目を逸らす。寄りかかっていたロッカーに向き直り、思いっきり蹴り上げた。鈍い音が部室に響いて、そこに小さく凹みが出来たのを、何秒間か、何十秒間か、見るともなく見ていた。
 こんなことをしたら真田副部長にまた怒られるな、と、呆けた頭の隅でぼんやり考えて、ますますやりきれなくなった。昨日の部活でも真田副部長に叱られたばかりだ。以前のような集中力が発揮できていない。鉄拳こそ降ってこなかったものの、そう怒鳴られた。
 思い返すものの何もかもが気に入らなかった。副部長の怒鳴り声も、昼休みの試合も、あとは……。
「…………」
 ずっとこうしているわけにもいかない。授業が終わったら、部員達がここへやって来る。またひとつ舌打ちをして、朝から置きっぱなしにしていたラケットバッグを肩に掛けて部室を出た。教室に戻るつもりはない。昨日の今日だ、無断でサボったりなんかしたら副部長に大目玉を食らうだろう。でも、それさえどうでもいい気分だった。
 どうしてこんなに投げやりになってしまっているのか、自分でもわからなかった。副部長に怒鳴られることなんて、ムカつくけどそれでも慣れっこだ。無造作に首に巻いた指定のマフラーのごわごわした感触や、校舎を出た途端鼻先を掠めた冷たい風、全てが無性に気に入らなかった。
 駐輪場から取り出した自分の自転車に跨って、ハンドルを握って風を切る。そこからすぐの位置にある校門を潜ったとき、
「赤也!」
 呼ばれた名前。誰かに会うとは思っていなかったから、その方向を振り返った俺の顔は間抜けなものだったかもしれない。校門の壁にもたれかかっていたのは見慣れた人だった。彼が差し出している片手は、ついさっきの昼休み、俺を殴ったそれだった。
「忘れもん」
 その手に握られている、その人の顔よりももっと見慣れた俺のラケット。背負ったラケットバッグの中にはスペアのものが二本入っているから、重さでは気づかなかった。そういえば昼休み、コートの地面にそれを投げつけたまま拾った記憶がない。
「……あ、ざっす」
 丸井先輩に聞こえるか聞こえないか、微妙な音量で呟いて、それを受け取ろうと自転車ごと近寄りながら左手を伸ばす。フレームを掴もうとしたとき、それはするりと弧を描いて俺の指先から離れ、先輩の逆の手に収まった。
「ちょっと、何すんスか」
「やっぱやーめた」
 軽い口調で言いながら、冷たい風に髪の毛の先を泳がせる先輩の、首元に巻いたマフラーが俺の前をひらひら翻る。飄々とした足取りが、俺とその背中に数歩の距離を作ったところで先輩は振り返って、笑顔で言った。
「もーちょい一緒に歩こうぜ。そしたら返してやるからさ」
 
 ◇
 
 ラケットを軽く投げるように浮かせ、空中で素早く回転させてもう一度手中へ戻す。その所作をさっきから何度か続けている丸井先輩の隣で、自転車を押していた。
 いつもの帰り道と時間が違うだけで、景色が少し違って見えた。夏と比べて、寒くなってからはめっきり日の落ちが早く、空気はすでに薄暗くはあったけれど、それでも部活帰りのそれとは別物だった。風は冷たい。ハンドルを握る両手が冷える。はっきりとしているのは手のひらの感覚だけで、見える風景も、体に当たる冷気も、どこか他人事のように感じた。
 校門から離れたきり喋らない俺の横で、先輩も黙っていた。普段よく寄り道をするコンビニの前を素通りする。そこから少し歩いたところで、初めて隣から声がかかった。
「サボっちまったな」
「…………」
「俺は一回教室戻って、早退するっつってるし平気だけど」
 頷くこともせず、押し黙ったままでいる。そういうなにげない会話をする気分にはならなかったし、してやる気もなかった。コートの上から連れてきた、行き先のわからない不満をただ持て余した。それを言葉にする方法も知らないまま、口を開く。
「ねぇ」
「ん?」
 俺と同じく進行方向を向いていた先輩の顔がこっちを向いたのが、視界の左の方に映った。
「アンタってさ、なんともないんスか」
 何が、とは言わなかったし、自分でもわかっていなかった。というより、たくさんの対象のなかで区切りがついていなかった。もしかしたら質問というより、責めるような口調になっていたかもしれない。
 通りを抜け、小高い丘への上り坂の数歩ぶん沈黙が起きたが、先輩は質問の意味を訊き返しては来なかった。
「そりゃ、なんともじゃねぇな」
 隣から聞こえたそれは、いつもはっきりとした喋り方をするその人にしては珍しく、つぶやくような言い方だった。そのまま先輩が何かを続けようとした気配がしたけど、それを遮るように口を開く。
「アンタのテニスって」
「ん」
「見てて楽しいとかって言われてんの、知ってますか」
「言われたことあるけど」
 前から用意していたわけでもない、不意に気になった俺の質問に先輩が答えて、たぶん次は俺が何かを言う番だった。だけど、それについてわざわざ言いたいことがあるわけじゃなかったし、それ以上に、なんとなく言葉に詰まった。
 いちど強い風が吹く。
「赤也は俺とは違うよな」
 そう言われて横を見た。今度は目が合わない。潮風に揺れた長い前髪のせいで、その横顔の表情はよく見えなかった。
「それってバカにしてんスか」
「しねえよ」
 向かい風に細められた目と、微かに笑った口元。取るに足らないはずのその表情に、なぜだか、見てはいけないものを見てしまったような気分になった。
「俺はシングルスやる気はねぇし。妙技で天才的に試合が決まれば、それが俺らのダブルスだ」
 それにさ、と先輩が続ける。
「毎日近くで練習見てたら、誰がどんだけやってるかとか、そういうのって分かるだろ」
 俺は相槌を打たなかった。数歩ぶん、また沈黙が訪れて、別の話を始めるような口調でその人は言う。
「俺もお前もレギュラーだからな」
 勝たねぇとな。言い聞かせるように続いた言葉に、俺は、無言で頷いた。
 居場所のわからない、持て余した感情が、少しだけあるべき位置に収まったような感覚と一緒に、心地良いと呼ぶには、染みる痛みを薄めたような、そういう感覚が付きまとった。
「痛かった?」
 そう言って、先輩は俺の頬に片手の甲を当てる。たぶん、それは冷たいものだったんだろうけど、俺の頬だってずっと冷たい空気に晒されていたから、その温度は分からなかった。
「……そりゃあ」
「こんだけ生傷作ってても、やっぱ殴られたら痛ぇんだ」
「当たり前じゃないスか」
「謝んねぇぜ」
 丸井先輩の喋り声の調子は、別段、俺を責めているものではなかった。
「容赦無く殴ってくれちゃって」
 逃げるように下に逸らした視線で、自転車のハンドルを見る。頷く代わりに、吐き出すようにそう言った。俺の声と入れ違いに、また強い風が吹いて、先輩の手の離れた頬に冷気が刺さった。
「大丈夫だって。ちゃんと治るから」
 先輩の手が俺の頭を、いつもより少し優しく撫でた。
 気に入らなかった。身長だって、俺ともうほとんど変わらないくせに。気に入らなかった。先輩が誰のために俺を殴ったのか、頭のどこかで理解していた。ずっと気に入らなかった。幸村部長のいない王者立海で、三強を倒すどころか停滞していく自分のテニスが。だって、俺のテニスは、勝たなければそこに意味はなかった。
 返す言葉を見つけられずに押し黙る。さっきまでと違って、むやみに意地を張っているわけではなかった。坂を越えて、堤防の横に入った途端、横から吹き付ける潮風の匂いが一気に濃くなった。ざく、ざく、ふたりぶんのシューズが砂を踏む音と、風の音だけを聞いていた。しばらくして、おもむろに口を開いたのは丸井先輩だった。
「明日は部活来いよ」
 自分だってサボっているくせに、その人はそういう言い方をした。
「言われなくても行きますよ」
 ぶっきらぼうに答えると、先輩は笑って、左手に持っていた俺のラケットを右手に持ち替えた。不意に手のひらのまめや傷が見えて、生傷だらけなのは自分だって同じじゃん、と、内心で思った。
「なあ、赤也」
「なんスか」
「最近思うんだけどさ。やっぱ俺、お前のテニスが好きだ」
 潮風の匂いと一緒に届いた、脈絡のないその言葉は、沈もうとする夕日の色とか、薄汚れた堤防や、見慣れた通学路によく馴染んで聞こえた。先輩の会話はやっぱりたまにマイペースだ。風の音とシューズの音はもう聞こえていなかった。
「それってたぶん、ちょっと良くないっス」
 ハンドルを掴む自分の両手を見ながら、茶化すように半笑いでそう返すと、先輩の声は「そーか」と少し笑ったあと、「そうでもねーよ」と言った。
 右、左、右。履き潰されたテニスシューズが、冷えた地面を規則正しく踏んでいくのが後ろから見えた。俺と同じメーカーのシューズ。数歩先をゆっくり進む丸井先輩の足元が見えるのは、俺が止まったからだ。
 ハンドルを両手できつく握り締めて、ただひたすらそれを見つめながら、俺はもう笑えなかった。吐き出した息は白い。夕日に伸びる先輩の影が、俺のラケットを小さく回していた。