海岸通り 4
 
 
 こっちを振り返ったその人は、小さく片手を挙げた後、その手をひらひらと揺らして手招くポーズをした。地面を蹴って、停止させていた自転車を再び前へ進ませる。それを確認した途端、進行方向に踵を返して歩き出した薄情な背中には、数秒で追いついた。
 そのまま隣を並走しようとしたら、自転車は押して歩くように、横から文句が降ってくる。過去に何度か同じ内容の文句を言われたような気がして、それで少し笑えるくらいには、その人に会えたおかげか、あるいはただの気分か、それなりに機嫌が良かった。
 
 4
 
 ぼすん、と音を立てて、丸井先輩は通学鞄を俺の自転車のカゴに放り込んだ。
 思わず「あ」と声が出た。重ねて抗議すると、「どうせお前のは入んねぇじゃん」と俺の肩に掛けたラケットバッグを顎で指す。確かにこれは大きすぎるし、カゴの中に入れられた鞄は重いわけでもなかったから、しかたなく文句を飲み込んでやる。
「ちょっと久しぶりだな」
 そう言って笑う先輩を見て、さっそく他人のチャリをこき使う前に、そういう挨拶が先なんじゃないか、の文句も、なんとなく飲み込んだ。
「先輩は相変わらず人づかいが荒いっスねぇ」
 べつに鞄くらい構わなかったけど、冗談を飛ばす意味合いで嫌味っぽくそう言ってみると、「二週間じゃ人間なんにも変わんねぇよ」なんて、悪びれない声が返ってきた。
 適当に返事をしながら、二週間、という言葉に、そうか二週間か、とどこか腑に落ちる。
 八月末、三年生は事実上の引退をした。中高一貫校なこともあって、正式な引き継ぎは年明けだけど、秋以降は二年以下が部の中心となる。
 今日まで、過ぎた時間は早かった。なんせ、やることも考えることも山積みだったのだ。新チームが始まってからのほうが予定の管理なんかはずっとしっかりやっているから、物理的に過ぎた時間のことは承知だが、今までとは違う時間の流れの感覚を、初めて言葉で聞いたような気になった。
 そして、たったの二週間とはいえ、それまでほとんど毎日顔を合わせていた人たちとあれきり会っていないのだ。だから、先輩の言う通り、こうやって話すのはやっぱり「ちょっと久しぶり」だった。
「そんで、お前は。調子どうよ?」
 そう問われて、ここ最近の立海大のテニスコートを思い浮かべる。新レギュラーの奴らは、肝心の新部長含めまだまだ経験値不足だが、センスが悪いわけじゃないのはわかった。それに今年の全国大会は多くの部員を奮い立たせたようで、根性が無いわけではなさそうな姿もちらほら見えていた。
「まあまあっス。まだ雑魚ばっかでダメダメだけど、思ったよりは悪くねぇかな」
 そんな俺の返事を聞いて、先輩は少し大げさに、作りもののような驚いた表情をしてみせた。べつに変なことは言っていないはずなのに。不可解なリアクションに怪訝な視線を返す。
「なんスかぁ?」
「いや、ちゃんとやれてんなあって。副部長」
 口端を上げて満足そうに先輩は言った。予期しなかった内容の言葉に、喉奥にむず痒くなるような感覚がした。なんとなく、そういう風に動揺したことは悟られないように、こっそりと表情を作った。
「なんでそう思ったんスか?」
 質問自体は素直な疑問だ。
「調子どうっつって、お前のこと聞いたつもりだったからさ。それ、部の話だろい」
 そして先輩のその答えには、他人事みたいに納得してしまうのだ。
「なるへそ」
 素直に頷いた俺を見て、先輩は声を上げて笑った。俺がさっき隠そうとしたことは、あるいはバレていたかもしれないけど、そんなに嫌ではないような気分だった。俺も丸井先輩も、たぶんちょっと機嫌がいい。
「つーか、当然っしょ。俺がちゃんとしてねぇと思ってたんスか? しっつれーな人だなぁ!」
「そうじゃねぇけどさ。だってお前、この前までこーんなだったじゃん」
 言いながら先輩は自分の腰辺りを手のひらで示す。
「そんなだった頃なんか知らねぇでしょ!」
 けらけらと笑いながら子供扱いしてくる先輩を、横目で恨めしく睨むも効果はなかった。
「……俺より小せぇくせに」
 今度こそ効果覿面であろう言葉を吐き出したら、後頭部にチョップが飛んできた。わざとらしくその場所を片手で抑えると、先輩はまた笑った。
 二週間どころか、ずっと前からこの人は乱暴で横暴だった、なんて、本人に言えばもう一度チョップを喰らいそうなことを内心考えながら、不意に疑問が浮かぶ。
「そういや丸井先輩、なんでこの時間に帰ってんスか?」
 部活を終えてから帰宅している自分と、引退したはずのその人の帰路が二週間ぶりに重なっている。浮かんだ疑問をそのまま問いかけると、先輩はしたり顔を作った。
「ふつーの中学生は、学校帰りにカラオケ寄ったりするもんなんだぜい」
「……あー、そうスか」
 納得しつつ、先輩の言う「ふつーの中学生」ではないらしい俺と、おそらく二週間前までの丸井先輩は、寄り道ならしょっちゅうしたけれど、部活帰りは腹が減っているから、その場所はラーメン屋だったりファミレスだったり、そういうところだったと思い返す。たまにそのままゲーセンなんかにも寄ったけど、大体は飯を食ったらすぐに解散。練習後はそれなりに疲れているし、部活終わりの時間からそんなに長く寄り道をするわけにもいかなかったから。
 羨ましいとは思わなかったけど、なんとなく、ささくれのような不満を感じた。
「楽しかったっスか?」
「まあな」
「ふーん」
「なんだよ」
「べつに。アンタらが遊んでるあいだ、俺はすっげー強くなってやるんで」
 自分が思っていたより拗ねたような声が出てしまったけど、言ったことは自棄や強がりなんかではなく、本当に思っていたことだった。
 先輩は返事という返事をよこさずに、道端の自販機のほうへすたすたと歩いていく。
「聞いてんスかー」
 自販機に向かい合っている彼の背中に、その場から声を投げ掛ける。返事はない。代わりにぼとん、ぼとん、と自販機の受け取り口に飲料が落ちる音が二回して、缶を両手に持った先輩がこっちへ戻ってきた。
 
 ◇
 
「マジっスか……」
 奢りだと言って差し出されたコーラの缶を、大げさに見開いた両目で見つめる。副部長がどうだこうだ、の話題で丸井先輩がよこしてきたリアクションや、その後のいくつかへの些細な嫌がらせへの仕返しのつもりが半分と、本当に驚いたのが半分だった。
「俺の奢りがそんなに珍しいかよ」
「珍しいっス。いてっ」
 本日喰らった二度目のチョップは、さっきよりも軽いものだった。堤防に並んで腰掛けて、受け取ったそれを喉に流し込む。
 真っ正面から緩く吹く潮風が、夏明けの生ぬるい気温に心地良い。
 潮の匂いと、砂浜と、それから海の色。毎日欠かさず通学路にあったそれらと久しぶりにこうして向き合って、なぜだか、入部前の浜辺での特訓を思い出した。あの頃の季節の潮風はもう少し肌寒かったはずだけど、あんまり記憶にはない。単に忘れてしまったのか、その頃感じる暇がなかったのか、どちらなのかはわからない。どちらでもよかった。
 感傷的な気持ちになったりなんかはしないけど、あのときはまだ二年生だった先輩たちがもう引退したのだ。色々あったな、と、感慨深くはある。
 もう一口コーラを飲み込んで、ふと口を開く。
「ねぇ先輩。来年、楽しみにしててくださいよ」
 来年。夏の大会。二週間前から、そのことを考えない日はなかった。けれど、声に出した途端、その大会は時間が経てばやってくるのだという当たり前のことが、一層現実味を帯びた気がした。
 丸井先輩が、堤防の上で折り曲げた片膝に肘を置いて、ついた頬杖。目線がこっちを向いた。
「今年から俺らは挑戦者だし。王者奪還して、またスタートラインっス」
「うん」
「俺は全国ナンバーワンの学校で、もっかいてっぺん目指すんで」
 言った言葉はやっぱり全部本心だった。それも、俺のなかに湧き上がっていた決意だ。
 俺の言うことを、隣に座ったその人はちゃんと聞いてくれるのを知っていた。それは俺が立海大のテニス部で今まで過ごした一年半で得た、たぶん幸福な、ついでだ。
「それ、やっぱいいな」
 先輩は、小さな笑みを浮かべてそう言った。
 否定されないのはわかっていたけど、そんな肯定のされ方をされるとも思っていなくて、一瞬押し黙る。
「……そりゃどーも」
 堤防の淵から下ろした足元をぶらぶら揺らしながら、目線を落とす。砂浜と、俺の履いているシューズと、先輩の下ろした片足の革靴が目に入った。
「頑張れよ」
 真横から聞こえる丸井先輩の声と、俺の頭を乱雑に撫でる、手のひら。
 その仕草になんとなく違和感を感じた気がして、すぐに気づいた。違和感の対象は別のものだ。クラスメイトや友達なんかにはよく言われるその言葉を、その人から聞くのは、たぶん初めてだったのだ。
「先輩……」
 不意に横を見て、無意識にこぼれた声に、丸井先輩はコーラの缶を傾けながら「ん?」と小さく首を傾げる。缶を持った腕に見慣れた黒いパワーリストが付けられているのが、衣替えしたばかりの長袖のシャツから覗いた。
 それを見て、何かを思うよりも先に、自分のなかに安堵に似た感情が生まれたのがわかった。
「……何言おうとしたか忘れたっス」
「大丈夫かよ、切原副ぶちょー」
 丸井先輩は乾いた笑いを洩らして、海へと視線を戻した。俺も同じく缶を口元へ傾け、ごくごくごく、と一気にコーラを飲み込んだ。不可解に湧いた感情も一緒に腹の底に押し込んで、空になった缶を見やる。
「飲んだ?」
「え、アンタ、飲み終わってたんスか」
「さっきな」
 平然と答える先輩に一瞬だけ慄いて、そういえばいつもそうだった、とその後すぐに思い直した。食うのも飲むのも俺だって速いほうだけど、丸井先輩は急いでいる素振りは見せないくせに、いつも俺よりもそれらが無駄に速かった。思い返してみたら、いちばん最初にふたりで寄り道をした日からそうだった。
「じゃあ、はい」
 手渡された缶が、あそこのゴミ箱に捨ててこい、の意図であることはすぐわかった。珍しく奢ってもらえたことだし、今回ばかりは後輩らしく素直に従ってやることにする。腰掛けていた堤防から降り立って、自販機の隣に並んで立つゴミ箱に二つの缶を押し込んで、振り返る。
 堤防のそばに停めた俺の自転車。その横に立つ丸井先輩の、足元ばかりが目立って見えた。
 
 ◇
 
「先輩って、俺が高校生になるまでに、背とか伸びるんスかね」
「はぁ?」
 再び自転車を押しながら、序盤の会話を思い出して何の気なしに言うと、カゴに入った鞄の持ち主は「喧嘩売ってんの?」と不機嫌に眉をひそめた。当たり前といえば当たり前のその反応に少し焦る。確かに言い方は悪かったけど、今回ばかりはそんなつもりじゃなく、ただ思ったことを言った結果だった。
「あーっと、そうじゃないっスよ。じゃなくて、なんかあんま想像出来ねぇから」
「……やっぱ喧嘩売ってんだろい」
 先輩は当然納得のいかなそうな顔をしていたし、自分でもどうしてそんな疑問を思いついたのかわからなくなってきた。話題を変えるつもりで口を開きかけるも、上手い言葉が見つからない。
「まぁでも、想像出来ねぇってのはわかるよ」
 それらしい言葉が思いつかず、口ごもっているうちに、先輩があっさりそう言った。
「特にお前のことは」
 付け足されたその言葉は、この場で思いついて口にしたものというより、以前からずっと用意していたものを、そっと取り出したような言い方だった。
「お前は何しちまうかわかんねぇもん。最初っからさ」
 言葉のわりに、その声にからかう調子はあんまりなかった。丸井先輩はたまにこんな風な喋り方をするから、その度にほんの少し、調子が狂う思いをする。
 視線を下ろすと、地面に転がっている小さな石ころが目についた。それをシューズの先で軽く蹴った後、左隣を歩くその人にもう一度視線を送る。
「一応訊くんスけど、褒めてるんスよね?」
「さあな」
「ちょっと」
「ははっ」
 今日、何度目か、丸井先輩が笑った。それを見ている俺の両目は少しだけ伏せるものだ。視線の先のその人は、当たり前だけど紛れもなく、初めてふたりで話した帰り道から、あるいは、きっと本当は、初めて会った日から今日まで繋がった、丸井先輩その人だった。
 さっき小さく蹴飛ばして、数歩先の場所に留まっていた石ころをもう一度蹴飛ばす。今度はさっきよりも遠くまで転がっていった。
 少しのあいだ、歩きながらそれを見つめる。
「先輩」
「ん」
「俺、頑張るんで」
 我ながら脈絡もなく飛び出た言葉は、思いついたままに取り出したものだった。さらに言えば、さっき返しそびれた、堤防でもらった言葉への返事だ。
「おう」
 先輩は戸惑うことなく相槌をくれた。口元だけの穏やかな笑みを横顔に浮かべたまま、その相槌に先輩が付け加えた言葉は、「知ってる」、なんていう少し変わったものだった。
 進行方向に投げられた先輩の目線はやさしかった。たぶん俺のために。
 俺も目の前の景色を眺めながら、今、先輩はすぐ隣にいるのに、その横顔を思い出していた。
 
 ◇ 
 
「んじゃな、赤也。お疲れ」
 それから交わした何でもない会話の隙間で、丸井先輩はそう言って、俺の押す自転車のカゴから自分の鞄を引き抜くと肩に掛けた。
 すぐそこに建つのは学校から最寄りの駅。丸井先輩はその駅から電車に乗るから、俺は押してきた自転車にここで跨って、この場で解散するのがいつもの流れだ。
「お疲れっス」
 小さく頭を下げた俺に、先輩は手のひらを挙げて、いつも通り駅の改札につま先を向けた。歩き出した背中の横で二、三回揺れた手の甲が、ズボンのポケットに収まったあたりで、俺は自転車のハンドルを捻って地面を蹴る。
 無心にペダルを漕いで、潮風を切って前に進む。さっきまで緩やかに横から吹き抜けていた風を、無理やりに正面から受けた。
(帰ったら部誌見返しながら、明日のメニューの確認しねぇと)
 白いシャツと深緑の制服と、遠くからでも目立つ赤い髪。いつの間にかとうに見慣れた、どこか飄々とした足取り。
(先週話し合った練習試合のオーダーも見直して)
 別にこれといった理由はないけれど、先輩のあの歩き方に、あの革靴は似合わないように見えた。
(あと、そうだった、シューズ。ソール減ってきたしそろそろ買い替えねぇと)
 なんでそんな風に思うのかはわからない。なんとなくだ。
 前髪を勝手に捲り上げる、自転車のスピードで作った人工の向かい風は、海の水のなかから立ちのぼった匂いが詰まっていた。
 まっすぐな海岸通りに自転車を飛ばす。吹きつける風に細まる両目が、ずっと先に見えるひとつの道路標識を無意識のうちに見つめていた。軽く息を止めながら、見慣れた景色を前から後ろへびゅんびゅんと視界に流して、しばらく自転車を漕ぎ続けたあと、やっぱり、なんとなく、ブレーキをかけた。
 サドルに座ったまま地面に片足をつけて、ひとつの場所に留まった瞬間、つい今まで前から吹き抜けていた強い風が、海の広がる左側から伝わってくる緩やかな風へと変貌した。
 その風の方向へ顔を向けると、そういえばさっき丘の上で少しだけ気にした夕焼けが、視界いっぱいに広がる水面に大げさに色を落としていた。
 さっきまで丸井先輩とこの道の続きを歩きながら、何度もこっち側を向いたはずなのに、ちっとも気がつかなかった。
 そう思うと同時に、そのとき俺の左側を歩いていた人の横顔とか、こっちを向いた目線とか、背中とかを、ふと思い返す。
 今日は珍しくジュースを奢ってくれたりなんかしたけど、やっぱり丸井先輩は変わらず態度がでかいし、すぐに手が出る。ついでに足も出る。でも、それでも俺は、今日、あの背中を見つけてうれしかった。
 たかが夕焼けだ。飲み込まれそうなほどに深い赤だとか、そういうのじゃない。飽きるほど見慣れた通学路だ。特別に綺麗だとか、ましてや感動みたいなものは、あるわけがない。
 ただ、ざわつくような、込み上げるような、得体の知れない感情が胸の奥から湧き上がって、気づいたら俺は自転車ごと踵を返して、来た道を逆走していた。
 ぎゅっと奥歯を噛み締めて、さっきよりも力がこもるペダルを次々と踏み込む。
 明日のメニューのことも、新調したいシューズのことも、何も考えられなかった。
 ひたすらにペダルを漕ぐ隙間で、再び正面から吹きつけてくる強い風に荒い息が混じる。
 ついさっき逆方向から通り過ぎてきたばかりの看板や標識を、順繰りに追い越す。同じことを何度も何度も繰り返して、そうしているうちに、駅が見えてきた。
 ペダルを踏む強さと速さをだんだんと緩ませる。スピードの乗りすぎたタイヤは、ペダルに足を載せただけの状態になってもそれなりに進んで、少しずつ緩やかになる風を受けながら、さっき先輩と別れた、改札の見える場所へ戻ってきた。
 自転車に乗ったまま、改札口に目をやる。うちの制服を着た生徒を含む数人がちらほら、そこを通り抜けていった。
 丸井先輩の姿はない。
 当たり前だ。
 ここで別れてから、たぶん二十分やそこら、それなりに時間が経つのだから。
「……はあ」
 無茶苦茶に回したペダルによる荒れた息とは別物の、自嘲の混じった息をひとつ吐く。
 何してんだ、俺。
 言い忘れたことがあっただとか、用事があったわけじゃない。そもそも、戻ってきたって丸井先輩がもうここにいないなんてことはわかりきっていたのに。
 二回目、今度は半分自棄のような気持ちで、自転車の向きを真逆に向ける。
 ……でも、今まで丸井先輩はよく、俺の予想だにしないところから現れて、声をかけてきたんだ。テニス部に入る前の放課後のゲーセンだとか、練習中の背後だとか、あとは、部活も授業もサボって帰った冬の日の、校門のそばだとか。
「…………」
 なんとなくじゃ、たぶん済まされない。
 それでも、本当に理由のないものはわからない。何があったわけでもないのに、どうしてこんなに息を荒くするまで自転車を飛ばして、ここまで戻って来てしまったんだ。先輩がここに居たとして、どうするつもりだったんだ。どちらもわからないのだ。
 目眩のするぎりぎり直前のような混沌とした思考のなかで、同じく理由も理屈もなしに、ひとつの記憶がふっと浮かんだ。
 ──お前のテニスが好きだ。
 先輩がいつかくれたその言葉を聞いているときの、景色だった。ここよりももう少し学校側、北のほうの。
 その景色が浮かんだ瞬間、区別のつかない色んな気持ちの混ざりあっていた空間で、ごちゃごちゃと積み重なっていたすべての異物が、見慣れたひとつの形に馴染んでいくような感覚がした。
 変わらずちらほらとした人通りのある改札前。地面に着けていた片足のシューズが、じゃり、と小さく砂の音を立てた。
 その足で地面を蹴って、もういちど同じ通学路を、今度はさっきよりもゆっくりペダルを踏んで進む。
 ジャージ姿でランニングをしている青年の背中を追い越した。通りの右側にずらりと並んで植えられた木々は、ぱっとしないくすんだ暖色系の色をした葉をつけている。落ち葉はほとんど見当たらないのに、一枚の灰色がかった橙が、ぽとりと散っていった。それを見るともなく眺めた。
 駅を抜けてからの道は、自転車以外で通ったことがない。去年の春は、憧れの立海大テニス部に入部したばかりで景色なんかあんまり気にしていなかったし、今年の春も、一年ぶんの慣れのせいか、自分の性格のせいか、ちゃんと目に留めてはいなかったけど、そういえば、この木は桜だったっけ。
 そうだ。
 この海沿いの通りを丸井先輩と歩いて、ひとりで自転車を走らせて浮かんだ、不可解な不満と安堵感、焦燥感とも言えない気持ちの正体はわからない。
 でも、さっき、不意にわかった。本当はひとつだけ、わかっていることがある。
 沈みかけの夕日にちらりと目を向けた。自然とハンドルをかたく握っていた。意識をして、深くゆっくり息をした。
 好きなのは、俺のほうだ。
 もしかしたら、あの日からずっと。
 辺りはいつの間にかだいぶ暗くなっていた。かちりと音を立てて、自転車のライトを点ける。
 好きだから、改札まで引き返して走ったのかはわからない。好きだから、先輩の見慣れない革靴が落ち着かなかったのかはわからない。
 なんせ、あんまり知らない言葉だ。だって俺はテニスがきっと好きだけど、自分がテニスを好きかどうかとか、そういうのは考えたことがない。
 ただ、改札口のそば、あのとき俺のなかに湧き溢れてとめどなかった感情を、その言葉と一緒に並べたとき、量は変わらないままで、落ち着いたように、安堵したように、用意されていた居場所に収まったような心地がした。
 それだけだった。
 別になにかが変わったわけじゃない。だって、たぶんもともと持っていたものなのだ。
 今までどこに隠れていたのか不思議なほど急に溢れて、飛び出して、それでいてまたあっけなく馴染んでいった、どうしようもない気持ちを押しつけるように、ハンドルをさらに強く強く握った。
 俺はこのあと、もうしばらくこの自転車を走らせて、家の駐輪場に停めてハンドルを離したら、部誌を見返しながらメニューを確認して、明日はきっとシューズを買いに行く。
 わざわざ名前をつけてしまったそれのことは、きっと、来年の夏には忘れている。
 真横に広がる夕焼けは、その人の色をしていた。