誰のせいだ
 
 
 あの日以来、持て余すことはなかった。
 
 
 1
 
 そうだ、誕生日おめでとう。
 部活終わりの着替えの途中、たった今思い出したという調子でそう言った部員は、俺と同じく二年D組に所属しているクラスメイトで、新レギュラーのひとりでもあった。
 とりあえず礼を言って、知ってたんだ、と加えると、昼にクラスで祝われてたろ、との返事が戻る。
 俺は今まで部内でどの同級生とも大した関わりは持たず、それはそいつにも同じことが言えて、クラスでも特に親しいわけでもなかったから、その答えに納得した。しているうちに、同じく周りで着替えをしていた部員たちが、それに乗っかって短い言葉での祝福をぽんぽんと投げやってくれた。
 そのまま部室を出て、自転車通学組の部員ふたりとついた帰路にて、コンビニに最近並び始めた肉まんを、誕生日だから、と奢られたりもした。
 去年も全く別のふたりに、帰り道、同じコンビニで同じように肉まんを奢ってもらったことを、部員たちと別れて、ひとりになってから思い出した。その人たちは先輩だったし、普段から(そのふたりの片割れひとりには)奢られ慣れていたこともあって、別のものを追加でねだっても受け入れてもらえた。そのありがたみのようなものも、ちゃんと一緒に思い出しておいた。
 
 誕生日は俺にとって、クリスマスと並ぶ大きなイベントだ。学校では祝福の声をかけてもらえるし、言わばその日の主役である。そんな風に注目を浴びたり、目立ったりするのは嫌いじゃない。それに家に帰ればご馳走が出るし、ケーキも食べられる。ケーキが特別好きだというわけでもないけれど、こういう時に食べるそれは、特別な日の象徴って感じがして気分が良い。あと、何より忘れちゃいけないのは、誕生日には自分の小遣いじゃ買えないプレゼントだってもらえる。それらを全部受け取り終えて、自室のベッドに転がった。意味もなく小さな伸びをして、見慣れた天井を見つめる。
 今日という日には満足していた。
 クラスの奴らに祝ってもらった。ちょっとしたプレゼントももらった。飯やケーキはもちろん、しばらく続いた残暑はいつの間にかすっかり姿をくらませて、冷たくなった空気のなかで、久しぶりの肉まんも美味かった。
 おまけに、家族にもらった新しいゲームソフトを今すぐにでもプレイしたい気持ちだって間違いなく抱えているのに、それでも、俺はこうやって、喉奥に何かが引っかかる、捜し物の場所を思い出すためのような、ぎこちない時間をわざわざ作って、摂っている。
 ため息を吐いてみた。
 見える景色は何も変わらない。当たり前だ。
 へんなの。
 つまらない日ではもちろんなかったし、物足りない、と呼べるほどまでに、何かが大きく欠けている感覚はない。それに、ずっとぼうっとしていられるほど、あんまり暇ってわけでもない。今日の部誌だってまだ書き終わっていないのだ。
 一分経つか経たないか、そのへんだった。天井を見つめるだけの時間は、不意に、今の今まで気にしていなかった携帯を無性に確認したくなって、阻まれた。上半身を起こす。
 思った通り、いつもより少しだけ多くメールが来ている。内容はだいたい期待通りだろう。小学校や一年のときにクラスが同じだった、律儀な友人達から何件か、と、真田副部長……いや、真田さんからメールが来ていたのは意外だった。昼に食堂で偶然会った柳先輩はさすが、俺の誕生日のデータまできっちり覚えていてくれていたし、その隣にいた幸村さんも、並んでおめでとうをくれたけど。
 普段だったら適当に読み流していたかもしれない、やっぱり堅苦しい文面のメールを、今日ばかりはそれなりにきちんと読んで、一応、それなりにきちんと返信をした。
 その後、かちかちと携帯のボタンを押す指が、メールの受信ボックスの差出人欄に新たな名前を押し上げた。
 俺の誕生日のなかの一分間を奪った、犯人の名前だった。
 
 2 
 
 誕生日おめでと
 今度ラーメン奢ってやるよ
 
 ジャッカルが、とは付け足されていなかった。
 尊敬する先輩にいただいたありがたいお祝いのメールに、そんな感想をまず一番に持ったことを知られたら、きっと頭とか、足とか、そのへんを一発殴ったり蹴られたりするんだろう。奢ってくれるらしい対象がなぜかラーメン限定であることも、どうせ自分が食べたい気分だったんだろうな、と、想像して少し笑えた。
 少し笑ってから、安心した。
 事実上の引退をした三年生の先輩たちと、校内で偶然会うことは滅多になかった。昨日の食堂での幸村さんと柳さんとの遭遇は、なかなかレアなものだった。
 なんせ、うちの学校はばかみたいに生徒数が多い。 顔の知らない同級生だってわんさか居る、そんな広すぎる校舎のなかでは、目立つ背丈や髪や肌の色、そういうものも、あんまり意味がなかった。そうやって俺はたったの七人を簡単に見失ったのだ。あくまで、目にうつるものの話でだけれど。
 そのあっけなさに驚きのような感情を持ったのは、新チームにある程度慣れてきてからの話だった。
 けれどその発見は思えば当たり前のことで、違和感こそあれど、大げさな寂しさなんかには結びつかなかったし、自然とそれを受け入れていた。その違和感すら、日々のテニスに思考と行動をこらす忙しさに紛れ、気づかないうちに古いものになっていった。
 俺はまた、心の端で、安心をする。
 
 
 3
 
 メールを送った。
 
 ◇
 
 奢られたのは本当にラーメンだった。
 早々に食い終わった俺を見て、目の前に座る丸井先輩は勢い良く麺を啜る合間に、「お前、もっと味わって食えよ」と顔をしかめた。
 ラーメンなんか今まで散々、この人の隣だとか、こんな風に前だとかで同じ調子で食ってきたはずだけど、そんなことを言われたのは初めてだった。ジャッカル先輩の奢りのラーメンが速攻で俺の胃袋に消えるのは惜しまないくせに、支出源が自分の財布である場合は話が違うようだ。
「ちゃんと味わったっスよ。美味かった」
「はー、ほー」
 ああ、そう。
 たぶんそう言いたかったであろう言葉を、麺を咀嚼している最中の唇の先だけで横着に発音したあと、きっちりスープまで全て飲み干した丸井先輩は、その器をテーブルに置いた。こんな調子で、いつもラーメンだけは俺の方が食うのが速かった。今日は久しぶりだ。
「アンタだって、味わってる〜、って言える速さじゃないと思うんスけど」
「俺は味わってるに決まってんだろい」
 どういう根拠なのか不満はあるけど、事実、この人はやたらと料理が上手かったりするから下手に反論できない。
 黙った俺を、それで当然だと言わんばかりの表情で見やると、先輩は立ち上がり、すんなりと伝票を手に取ってレジへと進んでいった。
 
 ◇
 
 今日は第一日曜で、テニス部は月に二度の貴重なオフの日だ。丸井先輩ももちろん、部活も授業もない。部のジャージや制服以外の服を着た先輩を見るのは、一緒にラーメンを食うだとかよりももっと久しぶりだった。このあと行く予定の、映画館のあるショッピングモールまでの道のりを私服同士で歩いているのは、ちょっと新鮮な感じがした。
「けっこー美味かったな」
「っスね。もうちょい学校に近けりゃあ、帰りに寄るんスけど」
「学校の近くにはもうあんだろい。あっちも美味ぇじゃん。つか、メールで見てえっつってた映画、なんつーの?」
 隣から降りかかった質問に、話題になっているアクション映画のタイトルを答えると、それなりに満足そうに先輩は「いーね」と頷いた。俺たちはこういうところで趣味が合った。
「もしかして映画も奢りっスか?」
「はあ? 調子乗んなっつの」
 半分、どころかまるまる冗談のつもりでそう訊いてみせると、丸井先輩は文字通りの睨みを利かせて、柄の悪い声を出す。予想したままの反応に、適当な返事をしようとしたところを、
「まあ、いいけど」
 今度はからきし予想だにしなかった言葉で返されて、あからさまに驚いてしまう。
「えっ!? マジっスか!?」
「お前なあ。毎度毎度失礼な反応しやがって。あ、ポップコーンは食うなよ」
「え……いや、食わねえけど、すっげえ太っ腹じゃん。なんで?」
 頭でも打っちまったんスか? と、「毎度」していたらしい失礼な反応をつい続けてから、機嫌を損ねてせっかくの奢りが無しになってはまずい、といまさら口を噤む。先輩は、やはりすっかり損なわれている機嫌を隠さない表情のまま、当然のように言う。
「なんでって、一応誕生日だろ。もう過ぎたけど」
 それは、俺からしてみれば、あんまり納得のいく理由ではなかった。
 もし口に出せば、また失礼だなんだと言われそうだから黙っておくけれど、だって、勝手に菓子をちょっと食っただけでキレるし、いつでもジャッカル先輩にたかって、たまにその被害を後輩である俺にまで被らせてくるような人だ。誕生日だからといって、飯に加えて映画まで奢ってくれる、寛大で先輩らしい先輩、ではないはずなのに。
 でも、そういうことを言って、表情以外も不機嫌になられては敵わない。せっかくそう言ってくれているのだ、正直なところ違和感しかないけれど、素直に奢ってもらうことにした。
 そして、もっと素直に言うならば、やっぱり少し、うれしいものだった。
 
 ◇
 
 映画館に着くと、ちょうどいいタイミングの時間に目当てのタイトルの映画があったので、多少席は混んでいたが、その回を観ることにした。一人だけキャラメル味のポップコーンを購入した丸井先輩と並んで席につく。ここへ来る途中の道の会話の通り、丸井先輩は本当にチケットを奢ってくれた。
 席に座ってほんの少しですぐに始まった、スクリーンに流れる予告編を、あまり興味ののらない視線で眺めながら、隣に座るその人のことを考えた。
 学校からの帰り道に何度も寄ったコンビニで、一年と少し前の俺の誕生日、いつものようにジャッカル先輩に押し付けることなく、きちんと半分こで、リクエストした肉まんやらチキンやらを買ってくれたのは覚えている。ついさっき、映画館の受付で見たような背中で、だったような気もする。
 丸井先輩の感覚はよくわからない。
 でも、あんな風に、切り札みたいに誕生日という言葉を口にしたのだ。
 部活前にしょっちゅう食べていた菓子やらはほとんど分けてくれなかったくせに、小さな弟がいるせいか、はたまた自分がかなり盛大に祝われるせいかは知らないけれど、とにかく丸井先輩は、誕生日というものをなかなか特別に扱ってくれる人らしい。
 知らなかった。
 そういえば、毎度失礼な反応をする、と俺を評したその人が、「毎度」のひとつに数えたであろう、先月の帰り道。自販機のコーラを奢ってくれた日。あの日、少し久しぶりに会った先輩には、あの日の俺が、誕生日を迎えたようにでも見えたのだろうか。それとも、ただの気まぐれだろうか。
 少しだけ顔を動かして、隣に座る丸井先輩の表情を盗む。スクリーンを見ている横顔は見慣れたものだったけど、暗闇のなかでは新鮮に見えた。
 ついでに視界に入った、俺たちの間に置かれている先輩のポップコーンを、思った以上に与えられていた誕生日の特権の大きさを測るものさしとして、興味本位でつまみ食いしてみると、横から足を蹴られた。その場所を片手で抑えながら、もう一度ちらりと横を見やると、先輩は目線だけで俺を見て少し笑ったから、アウトなのかセーフなのか、これもやっぱりわからなかった。
 予告編が終わって、本編が始まった。
 
 ◇
 
 映画は面白かった。王道のストーリーや迫力のあるアクションシーンは俺たちの好みに合って、シアターから映画館の出口まで交わした感想は互いに上々だった。
 その後、ショッピングモール内のスポーツショップに寄って、グリップを何個か纏め買いした。丸井先輩も同じく馴染みのものをひとつ購入していたから、「今も結構テニスしてんスか」と訊くと、「わりと」と頷いていた。秋からの放課後では、同級生たちとカラオケだったり、ボウリングだったりをして過ごす日も多かったけれど、最近はストリートや貸出コートでテニスをする日も増えたらしい。その場にはジャッカル先輩が一緒なことが多い、とも。
 その話を聞いて、なんとなく、当然だ、と思った。
 理由になるような理屈はないけど、秋になって、夏に掲げた目標の下ではなくとも、この人がただラケットを持つであろうことは、俺にとって自然なことだった。たとえば、高校からの部活までに身体を鈍らせないためだとか、エスカレーター式で受験勉強は必要ないから暇潰しだとか、理由はいくらでも取って付けられるだろうが、それらはどれも、たぶん本物じゃない。言葉にはできない感覚を、おそらく共有できるくらいには、俺たちは長い時間を一緒に過ごしていた。
 
 
 4
 
 その後、ゲーセンに寄ってからショッピングモールを出ると、昼過ぎと比べて随分冷たくなった夕方の風が吹き抜けてきた。海がすぐそこにあって、潮風だからやたらと冷たい。「さみい」と思わず顔をこわばらせた俺に、「何で帰んの?」と先輩が訊いた。
「チャリっスけど」
「ふーん」
 駐輪場は出口からすぐそこだ。大量に並んだ自転車を横目で見ながら答えた俺に、先輩は、少し納得がいかない、というような顔をしたけど、それは一瞬だけのことだった。今度はやっぱり何でもない顔で、先輩は続けた。
「今日、なんか話すことあったとかじゃねーの?」
 その言葉を聞いた途端、寒さにこわばったからだの感覚が急に意識されたようで、すればするほどこわばりの理由が変化していくのがわかった。
「……なんでそう思うんスか?」
「んー。メールで今日はふたりがいいっつってたじゃん。お前がそういうこと言うの珍しいから、相談でもあんのかなって」
 言葉を選ぶようにしているのか、思ったままのことを口にしているのか、読み取れない。けど、そんなことはどうだってよかった。
 俺が小さく重ねてきた安心を、ただの言葉で簡単にぐらつかせる、目の前の人にムカついた。
「べつに、何も無いっスよ」
「……、どしたよ」
 あからさまに出してしまった不機嫌な声を、一瞬後悔した。そんな俺にかけられた先輩の声はどうしてだか少し優しいそれで、思わず、目を逸らす。
 口を開けなくなった。そうしなければ、何かを口走ってしまいそうになった。俺が黙りこくっていると、「無いなら無いでいいけどさ」、と、先輩が同じ声音のまま続けた。
「……わりーんスか」
 地面のあたりを見つめたまま、噤んだ口の端から、声が洩れた。荒くなる語気を抑えられないまま、もういちど口を開く。
「相談とか無しに、俺がアンタとふたりで会いたかったら、ダメなのかよ」
 言い終えた勢いのまま顔を上げた。
 先輩は少しだけ目を見開いて、ぽかんとした、無防備に驚いた表情をしていた。この人がこんな顔してるなんて、ちょっとレアだな、とか、いやに冷静に心のどこかで思いながら、俺は言った端からやっぱり後悔していた。
「ダメなんて言ってねぇだろい」
 つーか、無いなら無いでいい、つったろ。そう続けて、俺の両目を見る。
 この人は、俺が目を逸らしたくなるような時、大抵こんな風にまっすぐに俺を見た。
 後悔だけで固まった胸のあたりが不意に軽くなって、あいた部分に、別の気持ちがゆっくり押し寄せる。
「……なら、いっス」
 吐き出した声の調子は拗ねた子供のようで、少しきまり悪い。先輩はころりと表情を変えた。口端の上がった、余裕ありげな、見慣れたそれだった。
 俺はかつて安心したのだ。
 俺にとっての重大イベント、自分の誕生日だって日に、たかが、部活の先輩ひとりと顔を合わすことがなくても、当たり前に良い一日を過ごせた自分に。一通の短いメールをもらって、それ以上の何かが欲しくなったりしなかった自分に。そうやって、その人とほとんど顔を合わせなくなっても、ありきたりな寂しい気持ちになんか、ならなかった自分に。
 それなのに、今、こんなにも簡単に足元をすくわれる。
 
 
 5
 
 ラーメンあざっす!
 ついでに見たい映画あるんで日曜遊ぼ
 二人がいいです
 
 誕生日の翌日に送った、そんなメールをしまった携帯電話を、さらにジーンズのポケットにしまい込んでいる。
 俺たちは並んで歩いた。学校からの帰り道と同じように、最寄り駅まで自転車を押す。
 さっきまで、俺たちの間、というより俺が一方的に纏っていた空気はあっさりと消えていた。いつも通りに笑った先輩が、いつも通りの声色で、俺になんでもないことを話すからだ。朝練に出なくなっても弁当作りのために朝は早いままだとか、クラスの野球部の友人が引退した途端に髪を伸ばす宣言をしていて、テニスが坊主を強制されるスポーツじゃなくてよかっただとか、なんてことない、くだらない話だった。
 いつも通り、やっぱり楽しかった。
 最寄り駅には、学校からのそれよりもすぐに着いた。
「楽しかったな」
 丸井先輩は笑って言った。
 俺も頷いて、「今日は色々あざっした」と、笑う。すんませんでした、は、癪だから言わない。
 先輩は俺の隣から駅のほうへと数歩踏み込み、体ごと振り返って目の前に立つ。
「おうよ。まあ、またちょくちょく遊ぼうぜ。テニスしてもいいし」
「ダブルスで?」
「先輩サービスしてくれんならそうだな」
「シングルスがいいっス」
「どっちもすりゃいいだろい」
 さっき、ショッピングモール内のスポーツショップで、ストリートでは自分たちのダブルスとまともに戦えるペアが居るわけもなく、専らジャッカル先輩とのシングルスばかりしているが、やっぱりダブルスがしたいという話を聞いたばかりだった。
「悪ぃけど、どっちでやっても負けねっスよ」
 そう言えば、先輩は余裕そうにも、満足そうにも見える表情で笑った。
「楽しみにしとくわ」
「マジで言ってんスからね!」
「へいへい。そうだろうよ」
 表情を崩さないまま、先輩の手のひらがこっちに伸びて、二度、俺の頭を軽く叩いた。それをゆっくりと引っ込めてアウターのポケットに差し込む。
「赤也」
「はい」
「なんか話してぇことあるときは、俺も聞くから」
 先輩はやっぱり、まっすぐ俺を見た。
 その人の言った「俺も」には、自分以外の誰が含まれているのか、ジャッカル先輩や、幸村さん達のことなのか、新レギュラーの奴らのことなのか、全部なのかはわからなかった。どうだとしても素直に頷く気にはなれなかったけど、口先だけで「はい」と返事をした。
「ん。じゃあ、電車来るし行くわ。またな」
 コケんなよ、なんて俺の自転車を指しながら言うから、誰がコケるか、と自然に眉が寄る。改札に向かって片足を踏み出した、半分だけの後ろ姿で、先輩はそんな俺を見てまた少し笑った。
 歩いていくその人を何歩ぶんか見送ったのち、その背中に向けて、大きめの声で、名前を呼ぶ。
「丸井先輩!」
 当然、その人は、俺の声で振り向いた。
 今まで何度だってありふれて、わざわざ選んで思い出したりしない、そんな些細な景色をほんのちょっとだけ特別に感じて、ああ、だめだ、と思う。安心なんて出来やしない。
「話聞いて欲しくなったら、そんときは、付き合ってください!」
 先輩はおかしそうに笑って、「いいっつっただろ!」、と、俺と同じだけの音量の声を返してきた。ついでと言うように、「なんか奢れよなー!」なんて付け足される。どうやらこの人だけは、誕生日以外も不思議な特権を持ち歩いているらしい。
 背中がまた、こっちを向いた。
 俺もつられて、少し笑いながら、後輩にたかんなよ、と、到底届かない小声でつぶやいた。